三度目の十字架と復活の予言をなされた後、いよいよエルサレムに向かう歩みが始まります。人々の高揚感は的外れなものでした。しかしイエス様はそれをすべて受け止めてくださり、粛々とエルサレムへ向かわれます。盲人の癒しの出来事がエルサレムへ向かう途上に記されていることは、罪の赦しと解放が背後に意図されていますが、そのことに対する人々の無理解が、盲人の姿に投影されているのかもしれません。盲人の「信仰があなたを救った」というイエスの言葉を通して、目が見えるようになったという喜びだけでなく、従うべき方は誰であるかを彼は知ったということを伝えられたらと思います。
人々はまるで凱旋するような気分でエルサレムへ向かいます。人のためにエルサレムへ向かわれたイエスと、自分の救いのためにエルサレムへ向かうイエスについて行った人々との対照的な姿が描かれています。盲人に対する見方も同じで、人々には道端に座る盲人のことなど目に留まらなかったのですが、イエスはその人に目を留めてくださったということでもあります。敢えて目の見えない人に「何をしてほしいのか」と尋ねることによって、人々が無視してしまった人の存在を知らしめようとしておられるのかもしれません。
盲人の気持ちにも寄り添いたいと思い、説教を作りました。子どもたちに聞いてもらうために、目が見えないということの辛さが伝われば、救われた喜びも分かってもらえるでしょう。
エリコからエルサレムまでは10キロほどの道のりです。途中には山間部もありますので、盗賊も襲うような道だったと思われます。もしかしたら、良きサマリア人の譬えの舞台も、このエリコからエルサレムの道程であったかもしれません。
盲人が叫ぶという言葉は2回出てきます。38節の叫ぶ(ボアオ―)は自分の感情から出てくる叫びです。39節の叫ぶ(クラゾー)は本能的に出てくる叫びです。この機会を逃したら、二度とダビデの子に会えないと本能的に察し、叫び声を上げたということでしょう。子どもたちにお話をする際に、声の大きさを変えることでその意味が伝わるかもしれません。
エリコという町に、一人の目の見えない人がいました。目が見えないので、いつも道端に座っていました。通り過ぎる人の中には、その人のことを可哀想に思い、目の前に置かれた入れ物の中に、わずかなお金を入れてくれる人もいました。中には、食べ物をくれる人もありましたし、そうやって過ごすのが、目の見えない人の毎日でした。
その人が座っていた道は、エルサレムという大きな町に繋がっていました。エルサレムには神様に捧げものをする特別な場所、神殿がありました。いろんな人が、お話しをしながら通って行きます。「今日は赤ちゃんが生まれたから、神様にお礼の捧げものをするんだ」「今年はたくさんの作物がとれたから、神様に感謝をしに行くんだ」などなどと話す声が、道端に座っている目の見えない人に聞こえていました。そんな話をたくさん聞いていたので、その人も一度はエルサレムの神殿に行ってみたいと思っていました。でも、誰も連れて行ってくれる人はいませんでした。
何年も何年もそうやって道端に座って過ごしていましたが、ある時、「イエス」という人のことをたくさん聞くようになりました。神様のお話しをしてくれる人で、病気を治してくれたこともあるというのです。何よりも、「昔から聞いていた救い主ではないか」と通り過ぎる人たちが言うのも聞こえてきました。それなので「もし、その人に私も触れてもらったら、目が見えるようになるのではないだろうか、いや、きっと見えるようになる違いない。」と、目の見えない人は思うようになっていました。
そしてついにその日がやってきました。その日は、いつもと違って大勢の人がやってきたのです。「エルサレムに行くぞ」と誰もが叫んでいます。いつもは通り過ぎる人たちはのんびり歩くのに、今日だけは押し合いながら歩いているのが聞こえます。「一体、何があるんですか?」と前を通り過ぎる人に聞いてみましたが、だれも応えてくれませんでした。「一体、何があるんですか?」何度も何度も聞き、ついに「一体、何があるんですか?」と叫んだとき、「イエス様がお通りになるんだよ」と、やっと一人の人が教えてくれました。
イエス様!!、そう聞いた瞬間、目の見えない人は叫んでいました、「ダビデの子、イエス様、私を憐れんでください、助けてください」と。余りにも大きな声に、そこにいた人たちはびっくりしました。それだけでなく、「うるさい!」と黙らせようとしたのです。でも、その人は必至でした。だってもしイエス様が来てくださったら、道端に座るだけの辛い毎日を過ごさなくても良いかもしれないのですから。だからますます大きな声を出して叫びました、「ダビデの子、イエス様、私をあわれんでください、助けてください」と。すると、だれかが近くにやって来て、「主がお呼びだ、こちらへ来なさい」と手を掴んで連れて行ってくれたのです。
とうとうイエス様にお会いできました。見えるようにしてくださり、「あなたの信仰があなたを救ったのです」とイエス様は声を掛けてくださいました。目の見えなかった人は、今は見ることができるようになりました。神様に感謝し、エルサレムに向かうイエス様と大勢の人たちについて行きました。いつかは行きたいと願ったエルサレムなのですから、嬉しかったことでしょう。でもそこは、イエス様が十字架につけられる所なのだとは、大勢の人々も、そして、今、目が見えるようにしてもらった人も、思いもしなかった所なのです・・・。
□57番 「しゅよわたしをあわれみ」
□改訂版27番 「キリエ・エレイソン」
*広い場所や外でやるプログラムです*
目が見えなくても、仲間を信じて行動することを体験してみましょう。
(本来のネイチャーゲームの目的とははずれます)
①まず、輪を作りましょう。(10人程度)
②その中で、コウモリ1名とガ2~4名決めます。
③コウモリとガは、輪の中に入ります。この時、コウモリは目隠しをします。
④周りの輪の人は手をつないで壁を作ります。
⑤コウモリは「バット」と叫び、ガはそれにこたえて「モス」と叫びます。コウモリは「モス」の声をたよりにガを捕まえます。タッチされたガは、壁になり、何回か交替します。
①5人くらいのグループを作ります
②1人以外は、目隠しをします。
③1列にならび、前の人の肩に手をあて“いもむし”になります。
④先頭に目隠しをしていない人が立ち、手をとり探検にでかけましょう。*列が乱れないように前や後ろの人とペースを合わせて歩きましょう。
今日の説教にあるように、バルティマイさんは必死にイエス様に対して叫んでいました。
目が見えないので、どこにいるかもわからなかったことでしょう。
気付いてくれなかったら?無視されたら?とちょっと不安はあったかもしれないけれど、信じて一生懸命叫びました。