荒野の誘惑と言われる箇所です。救いにとって、荒野で誘惑を受けるという過程は大切なことでした。なぜなら、神の救いの出来事が既に「出エジプト」として起こっていたからです。あの出来事の後、イスラエルは再び罪を犯し、国の崩壊を招きました。今、新たな救いの出来事が起こるとすれば、出エジプトの出来事をもう一度経験し、それを乗り越える必要があるのです。だから、主イエスが救いのために、荒野での日々を過ごされたのです。イエスは荒野に、人間の罪を負って向かわれたのです。
「40」という数字がカギになっています。出エジプトの時に荒野で過ごしたのが40年、モーセが十戒をもらうために山に登ったが、山に居たのは40日40夜です。40年は一世代の終わりでもあります。
誘惑の中身は、キリストの三職「預言者」「祭司」「王」に対応する誘惑です。パンの誘惑は預言者の言葉を勝手に用いる誘惑になっています。すべてを見せて跪けという誘惑は、王の支配に対する誘惑です。飛び降りろというのは、捧げものに対する誘惑になっています。これらのすべてを、神の言葉で応答されていることを心を止めたいものです。
荒野に行くというのは、「罪を負わせた雄山羊」に関する律法と関連しています。「こうして至聖所、臨在の幕屋および祭壇のために贖いの儀式を済ますと、生かしておいた雄山羊を引いて来させ、アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒野の奥へ追いやる。雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる。」(レビ16:20~22)つまり、単に荒野に行かれたというのではなく、罪を背負って荒れ野に行かれたということなのです。
そこには体を休めるような草原もありませんでした。そこには太陽の光をさえぎってくれる木陰もありませんでした。そこには水もなく食べ物もありませんでした。そこにあったのは、乾いた砂地とゴロゴロした岩。そこを人は「荒野」と呼びました。迷い込んだら命すら亡くなってしまうこともあるのですから、誰も近寄ろうとはしませんでした。悪魔がイエス様を連れていったのは、そんな「荒野」の中でした。イエス様は40日もの間、荒野の中におられたのです。その間、何も食べず、何も飲まずに!どうしてそんなことをなさったのでしょう。
ずっと昔、イスラエルの人たちも荒野の中にいました。エジプトという国で長い間、奴隷になっていたのですが、神様が助けてくださり、故郷(ふるさと)に帰れることになりました。でも途中で神様のお言葉を守れなかったので、荒野に40年間も過ごすことになったのです。辛くて苦しい生活だったでしょう。イエス様が荒野に40日間いたのは、昔の人々の苦しみを経験するためだったのかもしれませんネ。
さて、40日という長い日が過ぎて、悪魔がやってきました。「お腹が空いただろう。お前には素晴らしい力があるから、ここにある石をパンに変えて食べたら良いじゃないか。」イエス様は、食べ物は神様がくださることを知っていましたので、「神様がくださるパンと神様のお言葉で人は生きているのです。」とお応えになりました。
悪魔は次に、高い山の上にイエス様を連れて行きました。悪魔が辺りを指差すと、あっという間に世界中が見え、悪魔は言いました、「どうだ、素晴らしい世界だろう。これをお前にあげよう、俺にひざまずいてくれたらな。」イエス様は神様が働いてくださる国の素晴らしさをご存知でしたので、悪魔の言葉を受け入れず、「神様の国にお仕えすることがいちばん素晴らしいことです。」とお応えになりました。
高い山から降りて、悪魔は神殿のある町、エルサレムにイエス様を連れて行きました。神殿の屋根に立たせて言うのです、「ほら、見てごらん、あんなに沢山の人が神様に捧げものをもってやって来る。お前も神様に自分をささげてみたらどうだ。ここから飛び降りてお前自身をささげたら、神様が受け止めて救ってくれるだろうさ。」イエス様は「神様の言葉を信じること、これが神様に捧げする大切なものです。神様はいつも助けてくださいますから、試したりすることは必要ありません。」とお応えになりました。
イエス様は悪魔の誘いにも、聖書のお言葉で全てお応えになりました。聖書の言葉は今も、私たちを守ってくれるのです。
□36番 「しゅイエスのみちを」
□改訂版51番 「おそいくるライオン」
最近の自分をふり返ってみましょう。イライラしている自分やお友達に優しくしている自分。おいしいものを食べて、ニコニコしている自分。いじわるをしてしまって、あとで後悔をしてしまうこともあるかもしれません。1人の中には、いろんな自分がいます。どんな自分がいたのか、ふり返りながら、どんな時でもどんな自分がいる時でも神様がそばにいてくださることを感じましょう。