「貧しい人々」とは、誰のことでしょうか.イエスは何故、誰に語られたのでしょうか。
「山上の説教」として有名な箇所です。しかし、マタイには「幸いである」のみですが、ルカ福音書は、「幸いである」と「不幸である」とがそれぞれ、4つづつ記されています。
「幸い(マカリオス)」という単語ですが、元々、時間や状況によって変動する儚(はかな)いこの世の幸福ではなく、悲しみや不遇によっても消されることのない神の祝福を意味するものです。
「貧しい人は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と言われるこの「神の国が約束されている人々」とは、「人の子のために追い出され、ののしられ、……」とありますように、人の子のために貧しい人であり、飢えている人であり、涙する人々なのです。自分のためだけに生きていることではないのです。ちなみに、イエスの言われる「幸い(マカリオス)」という単語ですが、元々、時間や状況によって変動する儚いこの世の幸福ではなく、悲しみや不遇によっても消されることのない神の祝福を意味するものです。そして、私たちに何の前提条件も付けず、イエスは私たちを幸いと言われるのです。これは、どのような中に置かれようとも、それ以前に神による幸いがあるということです。逆に、富んでいる者の不幸、飢えている者に対して満腹している者の不幸、泣いている者に対して笑っている者の不幸というこれらの不幸をイエスが言われるとき、また、「すべての人にほめられるとき」とありますが、これは言い換えれば人間の判断によるもの、この世の価値に重きが置かれている状況です。つまり、「自分のため」ということであり、イエスが言われる幸いと不幸の違いは、「自分のため」か、それとも「人の子のため」「神のため」かということになるのです。
ここで大切なことは、貧しい人が幸いであるというとき、貧困そのものが幸いだとか、病人が幸いだということではなく、「神の国があなたがたのものである」という前提があるからこそ幸いなのです。つまり、神は貧しい人や病人、苦しんでいる人々を救われるという大前提があります。このことを明確にしておけば、私たちが住む世界ではネガティブと思われる、悲しんでいるとき、泣いているときというのは、誰にも言えない、また解決の糸口を見出せない時ですが、むしろ、そんな時だからこそ、神は共にいて下さり、慰め、恵み救いを与えて下さる時で、神に目を向ける、委ねる方を見出す時でもあるのです。そのとき初めて、私たちは神の存在に、また共にいて下さる方に気づくのかも知れません。私たちが自分のためにと追い求めているものは、神に背を向けたときに手にする世界であり、自分のためにということで満たされている世界なのでしょう。
* 讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□119番 「やさしいめが」
□改訂版114番 「やさしいめが」
8枚のカードを用意します。
ルカ福音書にある4つの幸い、4つの不幸を8枚のカードに書いていきます。
幸いと不幸はそれぞれ相対するものがありますので、それを表裏に張って4枚のカードにします。
そのときに子供たちと話しながらやってみましょう。
「貧しい人々は幸いである」の対になっているものは何かをさがしていきます。
4枚のカードになったところで、それぞれ裏表を見ながら何が大切なことかを話し合いましょう。
はなそう
・4つの幸いとはどんなことですか
・4つの不幸とはどんなことですか
・どの幸いと不幸が対になっていますか。