人間世界と神世界。神のみ意志に従う生き方とは何か。
シモンと呼ばれる漁師とイエスの対話。イエスは、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4節)の言葉に、漁師シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが何もとれませんでした。しかしお言葉ですから、網を降ろしみましょう。」(5節)とありますように、漁師として素人イエスとプロの漁師シモンとのやりとりと、逆転の結論をとおして、弟子となるシモンに注目してみましょう。
ガリラヤ湖畔で漁を生業としていたシモンは、特別貧しかったというより、当時は、ガリラヤ湖畔での漁業権を有してたことから、社会的には十分生活が成り立つ療育の人であったと思われます。そのシモンが、生活の保障、人生の保証である舟を、「すべてを捨ててイエスに従った」(11節)のでした。
さて,イエスの「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしてみなさい」に対するシモン・ペトロの「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」は、積極的というよりも、人生の挫折にも近い消極的な響きの言葉のようです。そこには夜通し苦労したが、その結果何の収穫もなく、徒労に終わったという事実があります。普通、漁師として生業を立てる者は、これまでの経験と感のような研ぎ澄まされた漁師としての自信をもって、最も多くの収穫を手に出来るであろう季節と時間と場所を見計らって漁に出たはずです。しかし、それはペトロたちの期待を大きく裏切るものでした。その働きと努力が報われたとき、それは疲れがあったとしても心地よいものに変わりますが、その努力が報われなかったとしたら、疲れは何倍にも加算されるものです。本日のシモン・ペトロも働きが徒労に終わり、疲れと苦悩にも似た思いを抱いて網を洗っていたに違いありません。できれば、網を洗うことよりも、一刻も早く家に帰ってその疲れを癒したいと思ったかも知れません。そのような時、イエスの「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしてみなさい」という言葉は、疲労と苦悩という火に油を注ぐようなものであったことは容易に想像できます。と言うのも、ペトロはイエスという評判のよい男であっても、所詮、漁のことは何も分かっていない素人のイエスが……との思いを抱いたかも知れません。
では、イエスの「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしてみなさい」と言われる「沖」は、一体何を意味するのでしょうか。それは言うまでもなく、自分の思いや自負心を捨てる領域であり、自分のこれまでの経験や価値観をすべて放棄させる領域なのです。この沖は、未知の領域で、まさにイエスに委ねた領域に属するところと言えるでしょう。今イエスの言われる「沖」とはシモン・ペトロの知っている領域、漁師として経験済みの領域とは異なるものを意味し、私たちの経験や確かさをすべて拒否する領域であるということです。そして、ここで放棄できないペトロの思いを大きく覆す出来事が起こったのです。これが神の領域なのです。自分の経験と確かさの延長線上で見ていたペトロは、イエスの中に奇跡を見たのです。そのときイエスは、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と約束されたのでした。
* 讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□67番 「ペテロは」
□改訂版53番 「ペトロは」
リーダーがイエスさま役。みんなは弟子になる。
さんびか(たとえばこどもさんびか53)を歌いながら部屋を歩き回り、突然リーダーが「(例えば)本箱!」と言うとみんなで本箱にタッチしにいく。
リーダー(イエスさま)の言う通りにすばやく?!従って行動しましょう。
※「イエスさまが言いました」という他のゲームでもよい。「イエスさまが言いました。○○してください」と言われた時はその動きをする。「イエスさまがいいました」と言わなかった時は動いてはいけない。
・ 「罪深い人」ってどんな人?
・ ペトロさんは何故恐がったんだろう?
みんながイエスさまから同じように言われたら、みんなどうする?
・ 「人間をとる漁師」って実際にはどんな仕事だろう?