神の御子イエスもまたは、洗礼を受けられた。その意味を問う。
洗礼は、罪の赦しを得させるための悔い改めを求めるものであり、水によって新たに生まれ変わる神の恵みの賜物です。イエスもまた神の子でありながら、人の子として洗礼を授けられました。では、神の御子イエスは、なぜ洗礼を受けられたのでしょうか?
キリスト教は、新約聖書の福音書に記されている洗礼を重んじ、イエス・キリストがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた場面や、イエスが復活後に使徒たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊のみ名によって洗礼(バプテスマ)を授けなさい。とその使命を与えられました。
この箇所の冒頭に、「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」(15節)とありますように、洗礼者ヨハネは民衆からメシアと見なされていました。それは、彼が、「主の道を整え、その道をまっすぐにせよ」の強い口調で、人にとに悔い改めを迫ったからです。しかし、彼もまたメシアではなく、「わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と自分の立場を明確にし、洗礼者ヨハネは民衆に、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を授けるイエスにも洗礼を施したのでした。すると、「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、『天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。』のでした。
ここで、一つの問いが湧いてきます。それは、洗礼が、「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」であるとするならば、何故、神の子と呼ばれるイエスが洗礼を浮かなければならないのでしょうか?神の子であるならば、罪なき、汚れなき者としての存在が明らかなのです。にも拘らず、イエスは洗礼を受けられたのでした。ではその真意、背後にあるものは一体何なのでしょうか。ここで明らかになるのは、イエスは「神の子」であると同時に「人の子」であるということです。これは父なる神の愛以外の何ものでもありません。つまり、「人の子」としてのイエスは、罪なき者であるにも拘らず、私たちの同じ高さ、同じ世界、同じ目線と価値観をもって、私たちの悲しみや苦しみ、また喜びや楽しみを持たれた方として誕生されたということであり、人々の重荷を、ご自分のものとして担われ歩まれるということです。別な言葉で言えば、私たちの生涯の同伴者として、すべてを担われ、分かち合って下さるかたとしておられるということです。それも、見えない存在としてではなく、すぐ隣におられる方としです。「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」は、その証でもあります。どんな時にも、イエスは神の子としてまた、人の子として、共にいて下さいます。
* 讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□120番 「どんなときでも」
□改訂版31番 「主よ、おいでください」
「ユールヤータ」の作り方
長方形の紙を2つに折ったものを色違いで2枚用意する。
ボール紙に貼り、マッチ棒や割り箸を中心の棒にしてこまを完成させる。
割り箸を使う時は鉛筆削りで先を少し尖らせると良い。
星に色や模様をつけてもよい。
また星を3つ重ねたこまを作ってもおもしろいでしょう。
・ 洗礼について話してみよう!
自分の洗礼、人の洗礼を見て。
・ みんなはどんな時に「きずな」を感じる?
それは誰と、どうしたとき?神さまと「きずな」を感じるときってどんな時?先生や牧師先生に聞いてみよう!