「すべての人に仕える」というみことばに関して、みんな大切な人、というところに絞りました。「だれがいちばん・・・」という会話を取り上げる時、受け取りようによっては、競争自体がいけないことといった極論に走ることも時折見かけるので、そこのところは気を付けたつもりです。
弟子たちの姿は、滑稽に思えることもあります。でも、自分の中にある願望をよく見つめてみると、この弟子の姿を通して、自分の姿が映し出されます。そうやって映し出してもらわないと、私たちも、自分の願望、自分の本音が見えずに、「わたしはけっこう、謙虚で、誠実」くらいに勘違いするところがあります。弟子たちも、自分たちが見えていませんでした。わたしたちもそうです。その自分をよく見つめて、説教に取り組むべきでしょう。
33節に「家に着いてから」とあります。家とは、だれの家でしょうか。カファルナウムの家は、シモン・ペトロとアンデレの家と思われます。(→マルコ1章21-34節参照)
35節「イエスが座り」慌てず、じっくりと、神の国について語られる主イエスは、座ってお語りになります。マタイ福音書5章はじめ、ルカによる福音書5章3節、ヨハネによる福音書8章2節など参照してください。
かけっこの練習を一所懸命がんばって、運動会で、一等になる。すごいことです。部活での練習を一所懸命やって、勝利を目指す。とっても素敵なことです。勉強をがんばって、テストでいい点数をとる。誰にでも、できることではありません。これも、すごいことです。絵の上手な人もいるでしょう。描いた絵が、入選した。これも、まねのできないこと。先生は絵が下手だったから、どんなにがんばっても真似できません。音楽の好きな人もいますね。歌がうまい人、楽器を上手に演奏する人。それで、コンテストで優勝した、とか。みなさんの中にも、何かでいちばんになったことのある人がいるかもしれません。それは、すごいことですし、努力をできる人もすごいことです。
さて、お弟子さんたちは、ある日、話し合っていました。それは、「だれがいちばん偉いか」ということでした。スポーツや勉強、芸術など、だれがいちばん上手にできるか、ということではありません。だれがいちばん頑張り屋さんか、ということでもありません。「だれがいちばん偉いか」ということ。神様は、わたしたちみんなを愛しておられます。誰かだけ、特別に偉いとか、誰かのことだけ、特別に愛しておられるということはありません。どんなに目立つ人のことも、どんなに目立たない人のことも、神様は、同じように愛しておられます。同じように、見守っておられます。お弟子さんたちは、そのことを忘れて、「だれがいちばん偉いか」と話し合っていました。
そこで、イエスさまは、小さな子供を抱き上げて、「みてごらん、この小さな子供。まだ何もできない。まだあまりたくさんのことも知らない。でも、神様は、同じように愛していらっしゃるよ。あなたたちも、だれが偉いとか、ではなくて、ひとりひとり、みんな大切だということ、思い出しなさい」とおっしゃいました。私たちは、すぐ、「だれがいちばん勉強できるかな」「だれがいちばんスポーツできるかな、あの人かな。あの人はすごいな」とすぐに、「だれがいちばん・・・」と考えてしまいます。でも、イエスさまは、「どこに偉い人がいるかな」といって偉い人をお探しになったことは一度もありません。どっちかと言うと、あまり目立たない人、病気だったり、体のどこかが不自由で困っていたり、そういう人のところへ行って、「大丈夫。あなたも神さまの子供だよ」と助けておられました。
お弟子さんたちにも、そのことを分かってほしかったのでしょう。「偉い人になりたいのかい。それよりも、目立たない人、困っている人、助けが欲しい人のそばに行ってごらん」と言われました。それが、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」というみことばです。偉い人ではなくて、みんなが≪大切な人≫ということを、イエスさまは教えてくださったのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□48番 「こどもをまねく」
□改訂版5番 「こどもをまねく」
マルコ福音書を見ると、三度の「受難予告」が記されています。一度目は8章31節から、二度目は、今日のところ、そして、三度目は10章32節から。受難予告においては、いつも「弟子たちの無理解」がクローズアップされます。一度目は、「そんなことがあってはなりません」といさめたペトロがいさめられる話。二度目の今回も、それを聞きながら、「だれがいちばん偉いか」と語り合う姿。そして、三度目のところでは、ヤコブとヨハネが「わたしたち二人を一人は右に、ひとりは左に」座らせてと、イエスさまに自分たちの栄誉を願い出る姿です。
笑うことはできません。わたしたちも自分の心の中をのぞくと、やっぱりいい思いをしたい、自分だけは上手くいきたい、もっと認められたい、成功したい、・・・と願望を持っています。そういうお弟子たちをお見捨てになることなく、エルサレムへ歩まれたイエスさまのお姿、改めて振り返ってみましょう。
はじめはひとりずつスタートして歌いながら辺りを移動し、歌が終わったところで近くのひととじゃんけんをします。一般的には負けたら勝ったひとの後ろに付きますが、ここでは負けたひとが先頭になり、最後に一本の電車になるまでじゃんけんを繰り返します。
歌は「じゃんけん電車」、「貨物れっしゃ」などがあります。「線路はつづくよどこまでも」も良いでしょう。大人も入って、できるだけたくさんで遊ぶと楽しいと思います。一番先頭になるのは誰でしょう?