聖書の御言葉は、時として、「道徳的な教え」のように受け取られることがあります。私たちも、もっといいことをしましょうね、といった具合に。でも、そういう領域でははかることができないことを、今日の個所のようなところは、示していると思います。自分を捨て、自分の十字架を背負って、という語り口も、さあ、私たちも頑張ろうね、というメッセージへとつなげることももちろんできるでしょうが、ここでは、自分を捨て、十字架を背負って行かれたまことの神の子、救い主を仰ぎ見ることを考えました。語るべきは、「道徳的な教え」ではなく、「福音」ですから。
出だしのところの洗礼者ヨハネ、エリヤ、預言者の一人、といったところを、直接語ろうとすると、その説明に追われることが起こります。あまり説明が長くなると、話の核が見えづらくなることがあるので、そこのところは子供に伝わりやすく置き換えるのもひとつの手であろうと思います。ここでは、すごい人、超能力者といった表現を使ってみました。
あとの方のペトロの「いさめた」話も、ここでは、「変な話」をしないでください、と言った表現を使ってみました。「悪い話」「いやな話」「聞きたくない話」・・・などの工夫もできるかもしれません。
創世記で、食べてはならない木の実を食べたアダムとエバに、「どこにいるのか」と神さまがお尋ねになる場面があります。神さまは本当にどこにいるのかわからないのではありません。お尋ねになり、答えさせることを通して、アダムやエバが自分のしたことを見つめるように導かれたと思われます。ここでも、人々は何者だと言っているか、とお尋ねになるからと言って、本当にイエスはそのことを知らなくて尋ねているのではなく、尋ねて、答えさせることを通して、弟子たちに、大切なことを教え導こうとされています。ここからいよいよイエスのエルサレムへの旅(十字架への旅)が始まって行くからです。
病気を治してくださるイエスさま。悪霊を追い出してくださるイエスさま。いろいろなたとえ話をして、神さまのことをお話ししてくださるイエスさま。目の見えない人を見えるようにしてくださるイエスさま。死んだ人をよみがえらせてくださるイエスさま。・・・そんなイエスさまを見て、みんな、どう思っていたのでしょうか。ある人は、「なんだかすごい人だね」「きっと超能力者だよ」と言ったかもしれません。「昔の偉い人が生き返ったんだよ」と言った人もいたようです。
イエスさまは、お弟子さんたちに「あなたたちは、わたしのこと、どう思いますか」とお尋ねになりました。お弟子さんのひとり、ペトロさんは、「あなたは、メシアです。」とお答えしました。それは、周りの人が考えているような、「すごい人」ということではなくて、「イエスさま、あなたはただのすごいひとではありません。あなたは神の子、みんなをお救いになる救い主です。」という意味でした。さすが、お弟子さんの答えは違いますね。
これをお聞きになると、イエスさまは、「救い主は、苦しみを受けることになっています。長老、祭司長、律法学者などから、苦しみを受けて、十字架につけられて、殺されるのです。そして、三日後によみがえります。」と。それを聞くと、ペトロさん、今度は、「イエスさま、そんな変な話はおやめください」と言いました。でも、今度は、ペトロさん、イエスさまから叱られます。救い主であるイエスさまが、苦しい思いをなさること、十字架につけられること、それは、悲しくて、辛い話だけど、変なことではない。とても大切なことなのだよ、と。
お弟子さんたちも、イエスさまのこと、えらい人とか、超能力者のように、考えていました。どんな問題があっても、すぐに助けてくれる、スーパーマンみたいなイエスさま、それが救い主、メシアだと思っていました。でも、そうではありません。イエスさまは、超能力者やスーパーマンみたいに、まるで魔法で助けるようなことはなさいません。人を救う、人を助ける、ということは、自分自身、苦しんで、痛みを負って、命をかけること。わたしも、そうやって、命をかけて、あなたたちを救うのだよ、と教えられたのです。そういうイエスさまのお弟子さんとして、あなたたちも、周りの人のために、必死になって、取り組む人になりなさい。自分ばっかりいい思いをしようと思わず、人の幸せのために、自分が痛みを負えるような人になりなさい。そういう思いを込めて、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とお語りになりました。
お弟子さんたちは、その言葉の意味が初めは分かりませんでした。また、意味が分かった後もそう簡単に、「だれかの幸せのために、自分がつらい思いをする」ということができるわけではないと思いました。でも、そのたびに、十字架にかかって、わたしたちのために、代わりに死んでくださったイエスさまを思い出しました。イエスさまは、超能力者のように、魔法のように、あなたをお救いになるのではありません。イエスさまは、あなたを救うために、十字架につけられて、あなたの身代わりになって死んでくださった、まことの救い主、メシアなのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□127番 「イエスさまのじゅうじかを」
□改訂版84番 「イェスさまのじゅうじかを」
「クリスマスは何の日?」「イエスさまの誕生日」という問答は、正しいと言えば、正しいのですが、でも、もっと大切な問いは、「では、クリスマスは、あなたにとって、どんな意味がある日ですか」という問いであり、これを考えることがより意味のあることだと思います。
「あなたにとってイエスさまは何者ですか?」「メシアです」というのも、算数の質問と答えのようなものです。でも質問と答えの間の「式」が抜け落ちています。子どもたち、そして、教師たち、ひとりひとり、「あなたにとって、イエスさまはどんなお方?」「わたしにとって、イエスさまは・・・・です。」ということを、証しし合ってみましょう。素敵な証し会が行われるはずです。
小枝を拾って組み合わせボンドと麻ひもなどで、固定して十字架を作りましょう。
縦の一本は神さまと私たちをつなぎ、横の一本はわたしたち一人ひとりをお互い隣り人としてつなぎます。
どちらもその真ん中にはイエスさまがいてくださることを覚え、感謝のおいのりをしましょう。