イエス様は、15節で「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と言われました。謎めいた言葉です。弟子たちも意味がわからなかったのか、尋ねています。イエス様の答は18節以下です。
「外から人の体に入るもの」、それは食べ物です。食べ物は外から人の腹の中に入り、そして消化されて外へ出ていきます。それは、外から腹の中に入るものは、出ていく時はみんな同じだということです。清いと言われているものも、汚れていると言われているものも、体から出ていく時、区別はできません。ですから、食べ物のせいで人が汚れるようなことはないと言うことです。食べ物は一つの例、たとえで、汚れは外から入って来るものではない、とイエス様は断言しておられるのです。それなら、人の汚れはどこから来るのでしょうか。
「人の中から出て来るものが、人を汚す」のです。その説明が20節以下です。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」と。
「人から出て来るものこそ人を汚す」というのは、体の中から出ていく排泄物のことではありません。「人間の心から湧き出る悪い思い」です。これこそが人を汚し、汚れた者とします。その汚れとして、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」などがあげられています。これらの悪い思いと行いは、外から入って来るのではなくて、私たちの心の中から生まれて来るということです。
バイキンのことを考えるとよく分かるでしょう。ファリサイ派の人や律法学者たちは、バイキンから身を守るように汚れから身を守ろうとしていたのです。食事の前に手を洗うという言い伝えが生まれたのはまさにそういう感覚でしょう。私たちが、衛生的な観点から、手を洗い、バイキンを流し落としてから、食事をするように、彼らは、同じ感覚で汚れを洗い落とすことによって清い者となろうとしていたのです。ところがイエス様は、汚れは洗い流すことができるバイキンのようなものではない、あなたがたの心そのものが汚れの源なのだ、と言うのです。
これはファリサイ派の人や律法学者たちに対する批判に留まりません。私たちが、良い人と悪い人を勝手に区別して、自分をますます清めたつもり、自分は良い人になっているつもりで、「悪い人」を見下したり、批判ばかりする、そういう私たちに対して、イエス様は、あなたがた自身の中に汚れがある、あなたの中にバイキンの巣がある、そこから悪い思いや行いが次々に外に出て来るのだと言っているのです。ですから、外側をいくら一生懸命清めても、それで清い者となるのではないということです。それではどうすればよいのでしょうか。
汚れは、内側、心の中から生じるのだから、自分の外側ではなくて、心の中をこそ洗い清めなさいと言うことでしょうか。そうではありません。私たちが洗い清めることができるのはせいぜい外側だけです。心の中を自分で洗い清めることはできないのです。イエス様の教えは、「手を洗うよりも心を清くしなさい」というのではありません。
イエス様は、伝道活動の最初に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言されました。「神の国は近づいた」、つまり神様の支配が今や実現し、あなたがたを捉えようとしている、と言うのがイエス様の教えの根本、基本です。そして、この神様の支配を受け入れてこそ、私たちの心を支配している汚れ、罪からの解放、救いがもたらされるのです。その解放、救いは、私たちが自分の心を洗い清めることによってではなくて、神様が私たちを支配してくださることによって、実現し、与えられるものなのです。
その神様の支配が、今や主イエス・キリストによって始まった、と言うのが「神の国は近づいた」ということです。私の、汚れからの清め、罪からの解放は、私がすることではなく、主イエス・キリストが、つまり、私の中からではなく、私の外から来るイエス・キリストがしてくださることなのです。私は何もせず、すべてをお任せすることが最善なのです。