① イエス様への驚き、困惑、疑問は大切。
② その驚きを自分の中に閉じ込めるか、開放し、神様にゆだねるか。
・聖書日課の前後関係、脈絡をつかむ。
・イエス様は神の「独り子」であるが、「一人っ子」ではなかった。弟のヤコブは
初代教会で重要な役回りを演じる
イエス様は今、人々の不信仰を見つめています。直前の5章21節以下のところでは、信仰によって救われた人々に注目していたのですが…。人々の不信仰のゆえに、ここではイエス様は、「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」のです。それは故郷のナザレであり、そこの人たちです。
イエス様の故郷ナザレは、ガリラヤ地方の片田舎の小さな村です。小さな村ですから、そこに住んでいる人々は、みんなお互いによく知り合っています。イエス様はその村で、大工であった父ヨセフと母マリアのもとで育ちました。そしておよそ三十歳ぐらいで、家を出、村も出て、ガリラヤ中で「神の国は近づいた」と教え、力ある業をされたのです。
ナザレの人々は、イエス様のことを、「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と言いました。これは、自分たちはイエスのことも、その家族もよく知っている、と言うことです。イエス様には、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンという弟たちがいました。また妹たちもいて、おそらくこの時にはみんな結婚していたことでしょう。
「マリアの息子で」という言い方に注目しましょう。一つには、父ヨセフは、その時、既に亡くなっていたからでしょう。しかしそういう場合でも、普通は父親の名前を用いて「誰々の子」と言うはずです。母マリアの名が出てくるのは、イエス様の出生にまつわる疑惑があったからです。つまりイエス様は、マリアがまだヨセフと正式に結婚していなかった時の子どもで、父親は誰かはっきりしない、ということです。ナザレの村の人々は、イエス様の出生にはそういう噂があることまで知っていたのです。
故郷の人々はイエス様につまずいたのです。イエス様の教えを素直に聞き、受け入れ、信じることができませんでした。イエス様はそういう故郷の人々の様子を見て、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われたのです。この言い回しは当時の諺だったようです。自分のことを幼い頃からよく知っている故郷の人々や親戚、家族の中では、預言者は預言者として敬われない、ということです。私たち自身の体験としても分かると思います。家族や親戚、友人知人といった身近な人には、自分のことがよく知られています。自分の良い点だけでなく、欠点もみんな知られています。「それでもクリスチャンなの?」と言われそうで、それが恐ろしくて、家族や友人だからこそ、教会にもなかなか誘えません。
しかし、イエス様の場合はそういう話ではありません。ナザレの人々はイエス様の知恵と奇跡を行う力に驚いています。それは、これまで至る所で、イエス様に出会った人々と同じ反応です。その驚きの中で、人々は神様の声を聞き、神様の救いのみ業を見たのです。そして、その中からイエス様に従って行く人たちが生まれたのです。
しかし、ナザレの人々はそうはならなかったのです。イエス様への驚きが信仰のきっかけとはならず、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう」と問うのでした。この問い自体は問題ではありません。問題はその問いに続いて彼らが、「この人は大工ではないか、マリアの息子で…」と、イエス様を分析し始めたことです。つまりナザレの人たちは、イエス様について自分たちが知っている事柄の範囲内で、あくまでも一人の人間として、イエス様を見て、分析し理解しようとしたのです。その結果、彼らはイエス様につまずきました。そして、信じることができず、拒んだのです。
イエス様のみ言葉やみ業に驚き、感嘆する、疑問を抱く。そこから、信仰が生まれるか、それともつまずき、不信仰になるか、分かれ道です。イエス様のことを、自分の理解できる範囲内で捉え、分析し、理解しようとするなら、つまずくことでしょう。そうではなくて、そこに人間の力を超えた神様の働きのあることを信じ、願い求めていくならば、イエス様のことを正しく知る道が開かれていくことでしょう。信仰へと通じる道です。
その信仰はどんなに不完全で、弱々しく、よろよろとした危ういものであっても、イエス様は私たちと常に共に歩んでくださり、その信仰を守り育ててくださいます。そして、5章34節にあったように、「あなたの信仰があなたを救った」と言ってくださいます
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□53番「しゅにしたがいゆくは」
□改訂版119番「主に従うことは」
驚いた体験を分かち合い、神様の働きを話し合おう。
<用意するもの>
新聞紙、ピンポン玉2個(2色)
①どんな時、神様を信じてるって思うか紙に書いてみよう。
(1人1枚でもいいし、大きめの紙にみんなの意見を書いていってもいい)
ex)教会に来た時、お祈りする時、嬉しい時、こわい時・・・・。
②今度は、どんな時、神様を信じてないって思うか書いてみよう。
ex)教会から離れている時、いいことがない時、いじわるな時・・・・。
※子供達の気持をうまく引き出してあげてください。
③今日の聖書の箇所を読んでみる。ナザレの人たちはどうしてイエス様のことを信じなかったのか話してみる。
④2色のピンポン玉の片方を信じる心のボール、片方を信じない心のボールにする。
⑤新聞紙の真ん中にピンポン玉の大きさぐらいの穴を開ける。新聞紙の周りをみんなで持ち、信じる心ボールは落とさないで、信じない心ボールだけを落とす。(2人ずつ、または4人ずつやってもいいし、グループ対抗でやっても盛り上がる)