二人の女性の話である。一人はイエス様を直接信じ、行動を起こしている。一人は寝たきりであり、直接動くことはできなかったが、その親がイエス様を信じた。信仰とは個人のものではなく、共同体の祈りの中にもあることを伝えたい。
病気の癒しの物語よりもその後、二人はどうしたか、イエス様はどうされたかがポイントでもある。安心して行きなさい、立ち上がって歩き出したというように日々の生活に戻す、人々の交わりの中に加えられていくことがイエス様のみわざ。
恐れることはないは船の中で風と波に翻弄される弟子たちに語った言葉と同じ。陸地でも恐れを覚える現実はある。そこでどう生きるか、何を信じるかが大切。
「タリタ クム」。アラム語、ヘブライ語、古セム語の説が有力。「タリタ」=「少女よ」 「クム(クミ)」=「起きよ」。
今日の聖書には二人の人がイエス様によって癒していただいた出来事が書かれています。まずはじめにイエス様にところにヤイロという人が来ます。彼の十二歳の娘が病気で死にそうです。親が必死にお願いをします。助けてあげてくださいと。イエス様はそれを聞いて、助けてあげるためにヤイロと一緒にヤイロの家に向かうことにしました。その途中の出来事ですが、長い間出血を患っていた女性も藁にもすがる思いでイエス様に近づきます。これまでどんな治療もうまくいかず、病が治るどころか、裏切られ、だまされ、財産を使い果たしていきました。そして、何よりも辛いのは病のために人々の交わりから排除されて、彼女は治る見込みがない孤独と絶望の中で苦しんでいました。彼女はイエス様の服に触れさえすれば治ると信じてそれを実行しました。彼女はそこまでイエス様を信じた、イエス様の力を信じたのです。彼女の信仰の深さがそこにあります。不思議なのはイエス様はそのように治った女性がいたのに気づいた後、彼女を捜したのです。本当はヤイロの娘の所に急ぐべきなのに。イエス様は女性を叱ろうと思ったのでしょうか、恥ずかしい思いをさせようと思ったのでしょうか。そうではありません。見つけた女性にイエス様は言われます。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。人々の前に女性を立たせたイエス様ですが、それはこの人を受け入れなさいと周りの人に言ったのかもしれません。信仰深い彼女を褒め、人々と共に生きるように勧めてくださったのです。
その間にヤイロの娘の病状は悪くなりました。その知らせを受けてもイエス様はヤイロの家に行きました。そして娘に声をかけます。「タリタクム。少女よ、起きなさい」と。治りなさいと言うのではなく、起きなさい、立ち上がりなさいです。少女も日常生活の中で人々と一緒に生きていく道をイエス様が示され、そこで生きることになりました。
この二人の女性の物語は本人の信仰と家族の信仰、執り成しの祈りを両方イエス様が聞いてくれたこと、そして私たちを立ち上がらせてくださるイエス様を教えてくれます。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□61番 「いつくしみふかき」
□改訂版 130番 「いつくしみ深い」
□横になった子どもに「○○(子どもの名前)、クム」と呼びかけ、手を引いて起こす。
□イエスさまの「~しなさい」という言葉をいくつか思い出してみる。
・「わたしにつながっていなさい」ヨハネ15:4
・「互いに愛し合いなさい」ヨハネ15:17
・聖餐式のときの「取って食べなさい」「取って飲みなさい」も牧師の言葉ではなくイエス様の言葉であることを改めて考える。
□少し大きい子どもには・・・。
イエスさまから呼びかけられる「起きなさい」と何か。
その人によって違う意味を持つのかもしれない。
(心を開く。暗い気持ちから抜け出す。平安な心で過ごす。)
教会に来ている大人の人にも聞いてみよう。