安息日(主日)が、私たちにとっても神さまにとっても、喜びの日であることを伝える。
教会によっては、必ずしも主日が日曜日ではなく、土曜日やその他の平日となっている教会もあるかと思うので、その場合は「日曜日」ではなく、当該曜日に変更されたい。曜日はいつであれ、週に一度、神さまによって誰もが教会へ招かれている恵みを伝えられればと思う。
安息日に麦の穂を摘んで食べた弟子たちを見て、イエスに言いがかりをつけたファイリサイ派の念頭には、安息日には一切の仕事をしてはならないと定められている「十戒」(出エジプト20章8節以下、申命記5章12節以下)があったのだろう。しかし、同じ『出エジプト記』23章12節には、安息日は「あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するため」とあり、また『申命記』5章の「十戒」の中にも、「あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことが出来る」とある。すなわち安息日は、私たちが休むため、私が元気を回復するために定められたのである。いずれにしても、「十戒」に記された安息日規定の根拠は、神の天地創造の御業を覚え、出エジプトの御業の恵みを想起することにある。
今日も、教会学校に来てくれてありがとう。みなさんがこうして日曜日(説教作成のヒントを参照)に教会へ来てくれると、私も他の教会学校の先生も、お友達もみんな嬉しいです。みんなで一緒に、心を合わせて讃美歌を歌い、イエスさまのお話しを聞き、そして神さまにお祈りすることは、楽しいですよね。中には、教会学校の礼拝よりもその後の分級を楽しみにしているお友達もいるかもしれませんが、それでもいいのです。お友達と楽しく遊ぶ時にも、イエスさまはニコニコしながら、私たちと一緒に遊んでくれるのですから。
さて、みなさんが教会にやって来て、礼拝にあずかり、楽しく遊ぶ日のことを、聖書では「安息日」と呼んでいます。「安息」というのは、お仕事をしないで静かに休むことです。大人になると、お父さんやお母さんも毎日夜遅くまで一生懸命お仕事をして、1週間が終わる頃にはすっかり疲れてしまいます。何も大人だけではありませんね。みなさんも幼稚園や学校に毎日行くのは楽しいけど、そのぶん疲れることもあるでしょう?だから、週に一度のお休みの日くらいは、体も心もゆっくり休むことが大切です。
お休みの日は、もちろん家でゆっくり過ごしたり、どこかへお出かけしてもいいのですが、神さまを信じている人たちは教会へ行きます。それは、みなさんと同じように、教会へ来てイエスさまの話しを聞いたり、讃美歌を歌ったり、お祈りをするうちに、だんだん心も穏やかになって、力が沸いて来ることを知っているからです。そう、安息日の日に行われる教会学校や礼拝は、私たちの心と体が元気になるためにあるのです。イエスさまが「安息日は、人のために定められた。だから、人の子は安息日の主でもある」とは言われたのは、そういう意味です。イエスさまは、みんながこうして日曜日に教会学校に来て、心と体が元気になることがとても嬉しいのです。どうかこれからも続けて来てくださいね。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□103番 「どんなにちいさい」
□改訂版58番 「どんなに小さい小鳥でも」
・ 安息日の本来の意味を、旧約聖書の「十戒」や「律法」に遡って考えてみましょう。
・ 私たちにとって、安息日が本当の意味での安息となっているかどうか検証してみましょう。
<用意するもの>
麦。花屋さんで売っている青い麦2〜3(ない場合は麦を画用紙に描いて切り抜いてもいい)。
輪になって座り両手を後ろに廻して床の上を動かし麦を探す。
鬼は輪の外側を歌いながら麦を持って廻る。
歌っている間に誰かの後ろにこっそり麦を置く。
後ろに麦があることを見つけたこどもはすぐに麦を持って立ち上がり輪の外側に出て鬼を追いかける。
鬼は捕まる前に立った子どもの席に座る。麦を持った子は鬼になる。
座る前に捕まったらもう一度鬼になる。
♪ハンカチ落としの歌
おとした、おとした、麦の穂落とした、拾った方は追いかけておいで拾った方は追いかけておいで。
※安息日ビジュアル聖書百科p155安息日