2015年5月24日 聖霊降臨祭
ヨハネ15:26-16:4a エゼキエル37:1-14 使徒2:1-21

今週の聖句

「父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるはずである。」
ヨハネによる福音書15:26

ねらい

ペンテコステでは聖霊が「舌」のようであったと記されています。これは聖霊に満たされた者達が、多くの言語で証しし始めたことと関係しています。元来、人間の舌は創造主なる神を讃美するために与えられました。しかし、詩篇12:5に歌われるように「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない」(詩12:5)と嘯くものとなってしまいました。「バベルの塔」の出来事は、それをよく物語っています。讃美を語る舌が、高慢の象徴、人間の分裂の象徴へと堕ちてしまったのです。「バベル」という映画が数年前にありましたが、古今東西、人間の一番の不幸は、夫婦が、親子が、家族が、仲間同士が心を通じ合わせることが出来なくなってしまったことにあります。その分裂を再び一つにする出来事、それが聖霊降臨が私たちに示す神の和解の出来事なのです。

説教作成のヒント

石川啄木の短歌に、『ふるさとの/訛りなつかし停車場の/人ごみの中に/そを聴きにゆく』というのがあります。盛岡出身の啄木は、東京の生活の中で、時に故郷のことばを聞きたくなって上野駅に出かけていたようでした。その心境を詠ったものです。聖霊降臨は「めいめいが生まれた故郷の言葉を聞く」(使徒2:6,8)出来事でした。クリスチャンにとって天の故郷の言葉が聞ける場所は教会であり、故郷のお父さんからの手紙が聖書です。聖霊が舌のような形で現れたというのは、言葉をもって臨まれたということです。コミュニケーションに大切なのは言葉を通しての心のやりとりです。その最も深いところで聖霊は働いて下さいます。

豆知識

聖書はどちらかというと視覚よりも聴覚を重要視しているように思います。目から入るものは誘惑や不信を生み出すと考えられているからです。アダムとイブの堕罪物語も「禁断の木の実」を見たのが発端でした。復活の主イエスを信じられなかったトマスは、主イエスの傷跡を見て、触れなければ信じないと語りました。一方、「聞け、イスラエルよ」と語られるように、聖書の民はみ言葉を聴き従うことの中に信仰を見出していました。聖霊降臨の出来事は視覚的な要素と聴覚的な要素がどちらも描かれていますが、中心はやはり弟子たちの口を通して語られた故郷の言葉でした。

説教

聖霊降臨祭は新しい出発の日、教会の誕生日であるとよく言われます。何が始まるのでしょう。何が生まれたのでしょう。先週、私たちは主の昇天を覚えました。主イエスは、弟子たちの許を離れ、天の父の御許へと行かれました。弟子たちは、今までイエス様にべったりくっついて、イエス様と一緒にいればどうにかなると思っていました。その時、主イエスが去っていかれたのです。それは、「あなたがたは自立しなさい」、「自分で歩き始めなさい」という、主のご復活の実として弟子達が自立して歩み始めることを促すためでもありました。

私たちは赤ちゃんの頃、一人で立って歩くことが出来ませんでした。ですからお母さんをはじめ大人の人に抱っこやおんぶをしてもらいました。でも1歳を過ぎると段々、ハイハイからつかまり立ち、そしていつの間にかひとり立ちが出来るようになるのです。お母さんが、子供がかわいいからといって、抱っこばかりしてはいつまでも甘えん坊のままで、独り立ちや歩くことは出来ません。信仰も一緒です。最初はミルクしか飲めない幼子でも、次第に堅いものが食べられるように訓練していかなければならないのです。その力と勇気を与えて下さるのが聖霊です。

それでは、私たちは聖霊を求めるのにめいめい勝手に、それぞれの信仰で祈り求めれば良いのでしょうか? そうではありません。聖書には「一同が一つになって集まっている」時に起きたとはっきり書かれています。そして、これは偶然ではありません。先週の昇天主日で語られた「父が約束されたものをあなたがたに送る」という約束を弟子たちは待っていたのです。「待つ」ということは苦しいことです。じりじりした思い、本当に来るのだろうかという疑い、色々な思いの中で待つのです。ですから希望や信頼がなければ待つことは出来ません。これまでも主に従って来たとはいえ、弟子達に欠けていたもの。それは、この「待つ」ことではなかったでしょうか?

2:8では聖霊に満たされた弟子たちが語った言葉を聞いた者たちが、ガリラヤ人である弟子たちからどうして「めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」と驚いています。故郷の言葉、それは他でもない、一番その人の魂に呼びかける言葉、琴線に触れる言葉です。聖霊はそのように私達の魂へと呼びかけて下さる。それはまた、誰一人としてこの福音から漏れることはないということなのです。私がもっとも自然で素直に聞き、話すことが出来る。そのような言葉で聖霊は私のもとへと来て下さるのです。

私達が毎週礼拝に集うのは、私達の故郷が既に天の国となっているからでしょう。故郷の声であるみ言葉に触れるために教会へと集められてくるのです。そして私達はまた、この礼拝から生活の場へと派遣されていきます。聖霊が舌のような形で現れたというのは、言葉をもって臨まれたということです。今日、改めて私達一人一人がそれぞれ語る言葉をもつように、聖霊が降って来られるのです。誰に対してでしょうか? それは私たちの周りの人たちに対してです。誰かに言われたとおりに、その言葉をオウムのように繰り返すのではありません。この私が信じているその言葉を、自分の言葉でしっかり伝えていく、証ししていく。その力を聖霊は今日もまた私たちに与えて下さっているのです。

分級への展開

さんびしよう

*讃美歌” はこどもさんびか”(日キ版)より

□42番 「おことばしんじ」

□改訂版93番 「おことばしんじ」

話してみよう

① いつまでも赤ちゃんのままでいたいと思うのでしょうか? 赤ちゃんのままでいたいなと思う時と、早く成長して大人になりたいなと思う時は、それぞれどんな時でしょうか。

② 身近な方言を探してみましょう。標準語と方言とどちらに親しみがわきやすいでしょうか。

③ 大好きな人と会えなくて寂しくなった時、どうしたら慰められるでしょうか。

④ 聖霊は私たちにどのように働きかけて下さるのでしょうか。聖霊が働かれると、どんな風に私たちは変えられていくのでしょうか。

やってみよう

☆ペンテコステフルーツポンチを作ろう

<用意するもの>

ナイフ(バターナイフ)、牛乳パックを広げたもの(マナ板として使います)、フルーツポンチを入れる大きめの器またはボール※必ず、手を洗って始めましょう。持ち寄りにしていますが少し用意しておいたほうがよいかもしれません。