2015年5月3日 復活後第4主日
ヨハネ15:1-10 使徒8:26-40 Ⅰヨハネ3:18-24

今週の聖句

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」
ヨハネによる福音書15:5

ねらい

枝に繋がるということは、真のぶどうの木であるキリストに繋がることと同時に、お互いにキリストの体とされている教会に繋がること。キリストという木に繋がることは、枝同士が互いに結び合うことでもある。ここに個人的信仰に基づきながら、それを超えた生命共同体的(教会的)信仰の重要性が示されている。愛の掟とは、父からキリストへ、キリストから私たちへと受け渡された愛を他者へと分け与えることであり、それは何かをすることに先だって、キリストに「繋がる」ことから始まる。

説教作成のヒント

植物なら根、幹、枝、葉そして花や実という有機的なつながり。動物なら人間も含めて、体の色々な部分が一つにつながっていのちを育んでいることが分かりやすい例となる。そして、私たちが繋がって(繋いで頂いている)理由が大切。それは、枝が実を結ぶことは父なる神さまの栄光に繋がっているということ。この罪人の私の救いを通して、神さまの栄光が顕されるということ。ここに驚くべき逆説、教会に託された福音がある。

豆知識

キーワードは「繋がる」。ギリシャ語ではメノーという言葉が用いられ、ヨハネ文書では神学的に重要な言葉。これは形式的・外面的にくっついているという状態ではなく、お互いが内面的に深いところで結びついている「相互的内在関係」を表している。この言葉を新共同訳聖書では「つながる」と「とどまる」と訳し分けているが、両方の意味が大切。ヨハネ文書がメノーを強調した背景には、当時の教会が置かれていた過酷な迫害の中での信仰者の戦いがあった。ただ漫然と繋がっているのではなく、しっかりとキリストに結びついて福音にとどまるということ。私たちにとって、一見牧歌的なぶどうの木の譬えは「いのちの問題」なのである。

説教

木の枝は自分から「この木がいい」とか、「あの木がいい」と言って、くっつくものではありません。逆に木が枝を張り、養分を送り、成長させて下さるのです。主イエスは繰り返し何度も「つながる」という言葉を語ります。「つながる」ことは、一人では出来ません。必ず相手があって「つながる」ことが出来るのです。誰かと繋がっていたいという思いは、私たちの根源的な欲求です。

よくルーテル教会で語られる譬えに、子猿の信仰と子猫の信仰というのがあります。小猿が親猿と一緒に移動する時、よく親猿にしがみついている姿を見ます。この場合、小猿が手を離したり、何かの拍子に振り落とされてしまうと、小猿は落っこちてしまいます。ですから小猿は必死です。

一方で、猫の場合、親猫は子猫の首根っこをくわえて移動します。ですから、子猫はただ力を抜いて安心して親猫に身を任せておけばよいのです。信仰も同様です。私が自分の力でしがみつくように一生懸命神様を信じるのは「小猿の信仰」です。つかまる力(信じる力)が弱くなったら落ちてしまいます。そのような信仰は、いつもびくびく、おどおどして安心感などは感じられません。「子猫の信仰」は、逆に親猫(神さま)がしっかりと私たちをつかんで下さっています。だから、私たちは安心して身も心も任せることができるのです。同じようにぶどうの枝である私たちは、ただひとえに真の命のぶどうの木である主イエス・キリストに身を委ねる形で繋がっているのです。

一方で主イエスは、厳しいことも語られました。それは「実を結ばない枝はみな、取り除かれ、捨てられ、焼かれてしまう」ということです。これはどういうことなのでしょうか? 良い木は良い実を結び、悪い木が悪い実を結ぶのなら分かります。しかし、主イエスという良い木につながっていながら、実を結ばないということがあるのでしょうか?

先ほど、「つながる」という事について語りましたが、主イエスはもう一つの言葉でそれを表現しています。それは「とどまる」ということです。9節では「わたしの愛にとどまりなさい」と語っておられます。実は日本語で「つながる」と「とどまる」と訳し分けられている言葉は、原語では同じ言葉が使われています。

スマートフォンのアプリに「ライン」というのがあります。これは正に友達同士が繋がっていることを実感するための道具ですが、実際に起きた友人間のトラブルによる殺人事件のように、現代人の繋がりとは瞬間的で忍耐がなく、自己中心的で他人の気持ちを思いやることからはほど遠いのが現状ではないでしょうか。

「つながる」ことと「とどまる」ことが同じ言葉であるのは、そこに確かな意思があることを意味しているのではないでしょうか。単にぶら下がっているというのではない。むしろ、川の流れに押し流されずに立ち続ける石のような在り方です。7節で主イエスは「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるなら」と仰います。つまり、私たちが主イエスのみ言葉の中に踏みとどまるなら、そのみ言葉の中に生きるならば、私たちは豊かな実を結ぶようになるのだと語っておられるのです。そしてそれこそが神さまの栄光を現すことになるのです。主イエスに繋がるとは、み言葉が私の中でまるで息づくようにその中に身を置くことです。それは楽なことではありません。み言葉に従えない自分と闘い、またぶら下がっているだけでは振り落とされてしまうような試練にも耐えなければならないのです。しかし、私たちがしっかりとキリストから目を離さずに踏み留まるとき、どのような人生の荒波の中でも私たちはキリストの平安の中に憩うことが出来るのです。

分級への展開

さんびしよう

*讃美歌” はこどもさんびか”(日キ版)より

□73番 「しゅイエスはまことのぶどうのき」

□改訂版60番 「主イェスはまことのぶどうの木」

話してみよう

①誰かにぶら下がってしがみついている様子や、おんぶしてもらっている様子を思い出してみる。

(または実際、大人の人に手伝ってもらってその場でやってみる)

その時、どんな気持ちを感じたかを書き出してみたり、話し合ってみる。

②神さまを信じることが、一所懸命頑張って神さまにしがみつくことだとしたら、赤ちゃんやお年寄り、力が弱い人や、疲れている時、頑張る力のない病気の人や障がいを持っている人はどうなってしまうのか、考えてみましょう。

③今度は逆に、神さまを信じるということが、抱っこやおんぶをしてもらって安心して身と心を委ねることだとしたら、どうでしょうか?

やってみよう

☆ぶどうをつくってみよう

1.折り紙の茶色と紫を6等分に細く切ります。

2.最初に茶色を輪つなぎして、ぶどうの枝を作ります。

3.その後、枝の好きなところから紫色で輪つなぎの要領でぶどうの実を作っていきます。

みんな神様に繋がっているブドウの実が出来上がります。