・困っている人を見かねた人々が、協力して一緒に困難に立ち向かう。そこにキリストの愛を
示す行いがある。
・一人の人を助けたいという周囲の人々の信仰によって、罪の赦しがなされている。他者のために仕えることを考える。
・ 一人で困難な状況に置かれていても、心にとめてくれる仲間によってキリストの恵みに与ることができる。
・ 救いを求める者の行動は、時として周囲を驚かせる。それ以上に、イエスのことを快く思わない者(律法学者)にとっては、救いを求める人を見ていない。
・当時の家屋は横梁の上に角材を並べ、その上に木の枝や柴を編み、粘土で固めた平家であろう。簡単に壊すことができるし、修復もしやすいので、そこまで驚くことではない。
・病気はその人の罪の結果という理不尽な考えが前提とされる。その赦しは神のみに可能である。イエスの赦しの宣言は病人を二重に苦しめる病気と罪の関連から彼を解放する。
みんなは友達が病気でキツそうにしていたらどうしますか?もし、外で一緒に遊んでいた時にお腹が痛くなったお友達がいたらどうしますか?今日の聖書のお話は、自分自身の大変なことじゃなくて、お友達が困っている時に行動した人たちと、その人たちにイエス様がどうしたかというお話です。
イエス様はお弟子さんのシモンとアンデレの家を出発して、周りの街に出かけて行きました。他の街でも神様のことを正しく伝えようとし、病気の人を癒していました。そのイエス様がカファルナウムという街にもう一回来たから、さぁ大変です。何が大変かというと、前回に病気の人や悪霊に取り憑かれた人を癒してもらったことを知っていたからです。前回癒してもらえなかった人たちが、今度こそ診てもらいたいと思って押しかけてきたのです。イエス様は大勢の人が押しかけてきても慌てることなく、神様の教えを人々にお話ししました。イエス様は病気の人を癒したり、悪霊に取り憑かれた人から悪霊を追い出したりできるのですが、まずは一番大切な神様のことを押し寄せた人たちにお話ししたのです。
わたし達は、病気の人がいるのだから先に診て欲しいと思うかもしれませんし、そうしてもらいたいと願うことでしょう。でもイエス様は神様のことをしっかりと知ってもらいたかったので、人々が集まった時にお話を先にしていたのです。そんなとき、4人の男が中風(体が麻痺して動かない人と説明したほうがわかりやすい)の人を運んできました。きっとイエス様のことを聞きつけていたんでしょう。イエス様なら癒してくださるに違いないと思って、寝床を担いでイエスさまのいる家まで来ました。
でも大勢の人が入り口にいたので、寝床を担いで中に入れません。ここで4人の男たちは諦めることなく、屋根に登って天井から病気の人をつり降ろしたのです。どうにかして病人をイエス様に診てもらいたい、癒してもらいたいと思っていたのです。
イエス様は4人の男たちの信仰(イエス様であればきっと癒してくださる、と信じる心)によって病気の人に「あなたの罪は赦される」と言われたのです。イエス様の時代は病気はその人の罪の結果と考えられていました。イエス様が「赦される」と言われた時、病気の原因とされる罪は4人の男の信仰で赦されたのです。病気の原因の罪が赦されたのですから、病気にはならないということです。だから病気だった人は起き上がって床を担いで出ていくことができたのです。イエス様を信じるから、困っている人をイエス様に逢わせたいと思っての行動です。私たちもイエス様のことをよく知らないお友達に伝えられるように、イエス様のことを覚えて過ごしましょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□61番 「いつくしみふかき」
□改訂130番 「いつくしみ深い」
・他者のために仕えようとしながらも困難な壁にぶつかった時、私たちはどのような行動を取るでしょうか。4人の男の気持ちを考えつつ、自分たちがどう対応するか分かち合いましょう。
・他の人が自分に出来ないことを成し遂げることができた時、嫉妬することがないか考えてみましょう(6〜7節から)。ここでは中風の人を見ることなく自分たちの思いをぶつけています。律法学者の気持ちを踏まえて、「罪」とはなんであるかを考えてみましょう。
用意するもの・・・大きな十字架を書いた紙、付箋
・付箋に周囲の人が困っているとき、自分はどんなことが出来るか、考えて書こう。
・書いたもものを十字架に貼ろう。
・お互いに自分の出来ることを発表しよう。