2014年9月28日 聖霊降臨後第16主日
マタイ18:15-20 エゼキエル33:7-9 ローマ12:19-13:10

今週の聖句

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」
マタイによる福音書18章20節

ねらい

・子どもたちの日常も、互いに、過ちや失敗をしてしまって、心を痛めるようなことがあったりするかも知れない。しかし、そんな色々な思いを抱えながら、私たちはこの場で互いの思いを重ね合わせながら、主を呼び求めていく。

説教作成のヒント

・「罪」を指摘することが起こるかもしれない。日常生活は、問題だらけかもしれない。心を重ね合わせながら主を呼び求めながら、イエスさまの名前によって共に集っている状況を踏まえたい。

豆知識

・教会は、見える建物を意味しない。イエス・キリストというお名前によって集められた群れである。

説教

教会では、いつも「お祈り」をしますね。

皆さん、この「お祈り」は、苦しみにあった時に、困難な出来事にあった時に、悲しみの中にいる時によくしますが、喜びの時にも、物事がうまくいっている時にも、祈るようにしてほしいと思います。つまり、いつでも、どんな時にでも、という事です。そして、私たちは、誰に向かってするのかと言いますと、それは、神さまに向かってです。

イエスさまは、私たちと神さまを〝つなぐもの〟として「お祈り」のことについてお話しくださいました。この神さまとのお祈りを通して、まさに天と地はつなげられる大きなパイプとなります。「お祈り」を通して、しっかりと神さまに結ばれている心は、平安です。そして、ちょっとしたことにも動かされないでしょう。

私たちも、イエスさまのように、広い心を持ちたいのですが、なかなかできません。でも、こうおっしゃいました。「私たちがその人の罪を赦さないなら、天の神さまもその人の罪を赦さないと」。そして、「私たちがその人の罪の鎖を解いてあげるなら、つまり、私たちがこの世でその人の罪を赦すなら、天の神さまも赦される」ということを言われました。私たちの二、三人の祈りの集まりに、神さまに心を向ける、その大きな力を、この地上の教会に、そして与えられていると言うのです。

祈りの声が空しく響くようであっても、無力に思えたりするようなことがあっても、お祈りを神さまが聞いておられるのだろうかと、疑いたくなるような時であっても、祈りの声は聞かれており、神さまの耳に届いているのです。この「イエスキリストの名」によって集まっているところ、すなわち教会に、神さまの国での力が与えられているのです。そして、さらに「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」と言われました。教会は、心を一つにしてあつまるところであり、それはイエス・キリストのお名前によって集まるところです。たとえ、二人または三人の集まりで、それを教会と言います。教会は、立派な建物を指すのではなく、祈りをする人々の集まりのことです。

この罪に満ちた暗い争いの絶えない地上で、共に集まって、一つの心になって祈りあうために私たちは、教会へ、子どもたちの集まりへと召し出されました。

分級への展開

さんびしよう

*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より

□97番 「こころをあわせ」

□改訂18番 「こころをあわせ」

□ThumaMina①3番

(ThumaMinaは、つかわしてくださいという意味の賛美歌で日本基督教団出版の世界からの賛美歌集)。詳細(日本基督教団webサイト):http://bp-uccj.jp/publications/book/4818405272/

やってみよう

イエスさまは、二人または3人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる、と言われました。

1、今から私がイエスさまになります、とイエスさまのお面をかぶる、または白い布を肩から斜めに掛けても良い。

2、いつも歌っているお祈りの歌(主の祈り=こどもさんびか21、小さいおててを組み合わせ、など)を歌いながら自由に歩く。

3、教師は歌の区切りがついたところで「二人」とか「三人」とか言う。

こどもは教師が言った人数で手をつないで座る。

一番速く座ったグループの真ん中にイエスさまが入る。

何度か人数を変えて繰り返して遊ぶ。

話してみよう

・実際に、2人または3人と、そして、多人数で集まってみよう。話し合うこともいいし、祈りをしてもいい。2人・3人と多人数は、違うことを体験するだろう。特に、祈りやたすけや支えが、一人では、できないものであることを確認しあったら、よい分級になることだろう。(教師一人一人が、子どもの様子をつかみ、組み合わせてみるのも工夫かも知れない)

・讃美歌を歌うことも、一つの取り組みも知れない。ハーモニーは、誰かがいないと、できないことで、独唱はあるが、共に歌うことは、相手があって初めてできることだから。歌う前には、この聖句を十分説明しておきたいし、この集まりの中にイエスさまがいることを伝えたい。