世界の平和、神と人との平和、人と人との平和、人の心の平和など、さまざまな平和を覚える日の聖句として、今週の聖句があげられている。どこか遠くの平和ではなく、キリストから絶対的に愛されているこの「私」と「あなた」という観点でとらえ、身近で日常的な題材で平和を考える。
幼児から小学校低学年向けに説教をする場合、第一にすべて子どもたちが知っている言葉を使わなければならない。「愛する」という言葉ですら彼らには実感がわかないだろう。置き換えが必要であり、これが意外と難しい。
ヨハネ15:9-12にある「愛する」「愛」の原語は、すべて「アガパオー(動詞)」「アガペー(名詞)」であり、神の絶対的愛を意味する。これは、人間が本来持っていない愛であり、キリストが弟子たちを愛することによって与えてくださった愛である。キリストの愛がいつも人間の愛に先行している。
今週の聖句は、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」ヨハネによる福音書15章12節です。イエス様がお弟子さんたちに語られたお言葉です。きょうは、イエス様のこのお言葉を学びましょう。
みんなは「さいた、さいた」の歌を知っていますよね。ちょっと歌ってみます。「さいた、さいた、チューリップの花が。ならんだ、ならんだ、赤白黄色。どの花見てもきれいだな」。とってもすばらしい歌です。とくに「どの花見てもきれいだな」というところが、とても大事ですばらしいのです。
チューリップの花の色は、赤、白、黄色でしたね。赤いチューリップが好きな人は手を挙げてください。白いチューリップが好きな人は?黄色のチューリップが好きな人は?好きな色のチューリップはみんなの中でこんなに分かれるんですよね。それで、自分の好きな色はこれ、という気持ちがどんどん強くなってしまうとどんなことが起きると思う?赤いチューリップじゃないと絶対ダメなんて思うと、白や黄色のチューリップはその人の中でどうでもいい、なくてもいいという気持ちになっちゃいますよね。そして、白や黄色のチューリップが好きな人たちのこともどうでもよくなってしまって、自分さえ良ければいいと思ってしまう。「赤白黄色、どの花見てもきれいだな」というきれいなお心が、いつの間にか自分中心のよごれたお心になってしまうのです。
そこで初めのイエス様のお言葉「わたしがあなたがたを愛したように」というのは、イエス様は赤いチューリップが好きな人だけでなく、白や黄色の好きな人たちも、とっても大事な人で、なくてはならない一人だと思っておられるということなのです。「どの花見てもきれいだな」というお心はイエス様のお心なのでしょうね。それだから、あなたがたも同じようにしなさいと言われます。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□77番 「せかいのこどもは」
□改訂125番 「イェス、イェス」
□ThumaMina①27番(ThumaMinaは、つかわしてくださいという意味の賛美歌で日本基督教団出版の世界からの賛美歌集)。詳細(日本基督教団webサイト):http://bp-uccj.jp/publications/book/4818405272/
①鳩の形に画用紙を切り、そのなかに自分で考えた、平和のことばを書く。
②それを壁に貼る、またはしおりにする、持って帰って家族と平和について話し合うなどに使いましょう。
Ⅰ
①先週1週間を振り返って、いやな思いをしたこと、とてもうれしかったことを思い出して書き出してみよう。そして、みんなに話してもいいと思うことを発表してみよう。
②いやな思いをしたことと、とてもうれしかったことの違いは、どこから生じているのか考えてみよう。今週の聖句と違うところ、同じところは何だろうか。
Ⅱ
ヨハネ福音書の復活物語(20章)では、復活されたイエスが弟子たちの前に姿を現された時、必ず「あなたがたに平和があるように」と言われている。平和=シャローム=主(神)の平和とは何か。弟子たちの置かれた状況から、また今日の社会状況から「平和」の持つ意味を考えてみる。