2013年10月13日 聖霊降臨後第21主日
ルカ17:11-19 列王記下5:1-14 Ⅱテモテ2:8-13

今週の聖句

「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
ルカによる福音書17:19

ねらい

・イエスさまのもとに戻ってきた人だけを賞賛するのではなく、その意味を考える。

説教作成のヒント

・重い皮膚病を患っていた人たちがどのような状況に置かれていたのか、その背景を理解する。

豆知識

・1987年に出版された新共同訳聖書では「らい病」と訳されていたが、1996年のらい予防法廃止に伴い、翌年1997年に「重い皮膚病」と改訳された。ただし、日本聖書協会は訳語として検討の余地があることを認めている。

説教

今日の福音書は、ルカによる福音書「らい病を患っている10人の人をいやす」という小見出しのついている物語です。私たちの今の聖書では「重い皮膚病を患っている10人の人をいやす」という訳になっています。「らい病」という言葉が差別用語になるので「重い皮膚病」と改訳されました。しかし、この物語を理解するには、その背景にある「差別」という問題を考えなくてはいけません。「あいつはライだ」という言葉は、「あいつに近寄ってはいけない」「あいつは私たちと同じ人間ではない」という意味で使われてきました。ですから、「重い皮膚病」と訳してその背景をぼかさずに、今回は、ここを「らい病を患った人」としたいと思います。

次のようなお話です。『イエスさまがある村に入ったとき、10人のらい患者が遠くの方からイエスさまに呼びかけます。当時(最近まで)、らい病を患っている人たちは、「人」として当たり前に生きることができませんでした。彼らは汚れた者として隔離されていたので、普通の人に近づくことができなかったのです。イエスさまはこの10人を癒されます。しかし、イエスさまのもとに感謝するために戻ってきたのはたった一人だけでした。イエスさまはその人に言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」』。

さて私たちは、イエスさまに感謝しに戻って来なかった9人に対して、「あなたたちは「ライ」と呼ばれ、人として当たり前に生きることができなかった。それをイエスさまが癒してくださったのにもかかわらず、感謝しに戻ってこないなんてけしからん」と思ったりしないでしょうか。

しかし、ここで考えてみたいのです。私たちは、「あなたは病気だから人ではない」と言われたら、怒りこそすれ、そう言われても仕方がないとは決して思わないでしょう。この物語に登場する10人のらい病を患っていた人たちは、「あなたたちはライだから人ではない」と言われ、共同体から疎外されていた人たちでした。そして、そのことに「それはおかしい」と声をあげる権利もなかった、つまり、人としての尊厳も奪われていた人たちでした。それは決して、仕方がない、という言葉ですますことができないことです。そしてこれは、今から2千年前の遠い外国だけの話ではありません。日本においても、癩予防法という法律が1907年に施行され、1953年に「らい予防法」となり、1996年に廃止されるまで(わずか17年前です!)、公共の福祉のため(みんなのため)という理由で、隔離政策が続けられてきました。私たちは、「あなたはライなので、公共の福祉のため、みんなのために、私たちの共同体から外れた所で生きてください」と彼らを疎外し続けた側にいることを忘れてはいけない、と思います。そうであれば、先述の物語の中の9人は、そのことに気づかされた人たちだと言えます。人として普通に生きられることは「当然」のことなんだ、と。私たちは、この9人の意見に同意することから出発したいと思うのです。なぜなら、彼らに感謝を強要するのは、らい患者にその強制隔離を止めた人に感謝しなさい、ということと同じだからです。私たちは、彼らを共同体に再び迎え入れるとき、彼らに感謝を強要することができるのでしょうか。決してできません。日本に住む私たちは、とくに、らい病の治療法が発見され(それは1941年)世界的に隔離政策をやめる方向にあった時に、強制隔離政策を実施し続け、また長い間それを放置したままでした。私たちは、知らない(関わらない)ということを通して、らい病の人たちを隔離し続けて来たのだと思います。そんな私たちが、今日の福音書を読む時に、「あなたたちは、「ライ」と呼ばれ、人として当たり前に生きることができなかった。それをイエスさまが癒してくださったのに、感謝しに戻ってこないなんてけしからん」などと言うことはできません。私たちは、ごめんなさいと頭を足れ、彼らに赦しを求めることしかできないのではないでしょうか。

しかし、そんなときに、一人の人が戻ってきます。大声で神を讃美しながら。このとき、そのたった一人だけがなした感謝とはどのようなものなのか、この箇所をそう問い直したいのです。それは、決して「強制隔離を止めてくれてありがとう」「共同体に迎え入れてくれてありがとう」という意味の感謝ではありません。彼は、人として当たり前に生きられることを、大声で神に感謝を捧げたのです。私たちは、人が人として生きていくことができることを、当然のことだと思っています。しかし、彼は、ただそのことだけを喜び感謝しているのです。そして、彼が、そのことに気付くことができたのは、「人との(イエスさまとの)関わり」を通してでした。他者との関わりのないところは、絶望の暗闇の中のような場所です。パウル・ティリッヒは、『信仰の本質と動態』という著書の中で次のように言っています。「信仰は、われわれが究極的に関わっている状態である。だから、信仰の動態は、究極的な関わりの動態である」。究極的に関わっている状態とは、単純に言うと、「こんにちは」という挨拶を贈り贈られる関係のことです。挨拶を贈るとは、相手のことを承認し、受け入れ、祝福を贈ることです。つまり「あいさつ」を交わす関係とは、命と命がつながっている関係である、ということです。私たちにとって、これが究極的なこと(何よりも大切なこと)であるのです。そして、信仰は、具体的な関わりの働き(挨拶をする、されるという具体的なこと)と共に現れる、とティリッヒは言っているのです。

イエスさまとの関わりを通して暗闇から抜け出し、自分は承認されている、受け入れられている、祝福を贈られていることをはっきり悟ったその一人の人は、神に感謝を捧げ、イエスさまのもとに戻ってきます。彼は、自分が神と、また他者とつながっていることを、自分の体で表したのです。ティリッヒは、それが信仰です、と言うのです。そしてイエスさまも言われます。「あなたの信仰があなたを救った」。他者との関わりのなかで神の愛を知り(究極的な神とのつながりを知り)、他者とつながっていこうとするあなたの歩みが(信仰こそが)「救い」なのですよ、と。私たちも、他者に無関心になるのではなく、つながりを喜び、感謝し、他者とつながっていく者となっていきたい、と思います。

分級への展開

さんびしよう

*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より

□51番 「わたしはしゅのこどもです」

□改訂123番 「わたしは主のこどもです」

やってみよう

☆立ちたくても立てな~い?

立ちたくても立てな~い?ってどうして?を実験しよう!

<用意する物> 椅子

①みんな今立って下さいといったらすぐ立つことできる?じゃあ重いもの持っていても立つことできる?(何か本でも鍋でも身近にあるものを持って立ってもらう)

②今から立ちたくても立てない不思議な実験をしたいと思います。(大人が見本を見せるから見ていてもらう)

③1人が椅子に座って、もう一人が人差指を座っている人のおでこに当てる。座っている人に立ってもらうがなかなか立てないのを見せる。

④そんなことはない絶対に立てると思う人!立てない演技していると思う人!“と聞き、実験に加わってもらう。

⑤友だち同士でも順番にやってみる。

⑥立ち上がることはわたし達の生活の中では難しい事ではないと思っているが悩みや心配事、嫌なことがあると今日学校行きたくないな~と前に進めない時あるよね。

⑦今日の聖書にとても大切なことが書かれていました。「あなたの信仰があなたを救った」神様にお任せいたします、神様見ていてくださいねと神様にお祈りしたらきっと立ち上がって前に行くことができるようになるでしょう。

話してみよう

Ⅰ.

なぜ9人の人は戻ってこなかったのでしょう。イエス様はそのことをどう思われたでしょう。あなたはイエス様に癒されたと思ったことがありますか。

Ⅱ.

挨拶を交わすこと(あなたのことを無視しません)は、祝福を贈り合うこと(あなたの存在を受け入れます)です。祝福の言葉を自分で考えて、相手に伝えてみよう。祝福を贈られてどんなふうに感じたか話し合ってみよう。