・今週の聖句の大切さをまずしっかりと理解する。他者に対して、だめなことをだめといい、ごめんなさいと反省したら赦す、ということの大切さを。その上で、このイエスさまの言葉を具体的に実践することについて想像し、その困難さと理由について考えてみたい。
そのことを通して、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」というメッセージを、遂行的なものとして伝える(ことを目指したい)。
・イエスさまからの教えを、イエスさまの側に立って(イエスさまに代わって)子どもたちに伝えるのではなく、説教者自身がイエスさまの教えに耳を傾ける者として、それを子どもたちと分かち合うということを心がけてほしい。これは今回に限らず、説教とは、説教者が、神さまに代わって、イエスさまに代わって語ることではないことを常々心に留めてほしい。
・今週のルカ福音書のイエスさまの言葉の中に「小さい者」(17:2)というものがある。ここはマルコ福音書9:42節以下の並行個所である。読み比べてみると明らかだが、イエスさまの同じ発言に見えるこの単語、指すものが違っている。ルカ福音書の「小さい者」は、イエスさまを信仰するキリスト者(弟子たち)を指し、マルコ福音書の「小さな者」は、ペテロたちの弟子集団に加わることはしないが、イエスさまの名前を用いて治癒活動を行っている人たちを指している。
ルカ版イエスを絶対視するとマルコ版イエスと矛盾し、マルコ版イエスを絶対視するとルカ版イエスと矛盾する。聖書の深みは実はこんなところにあったりするのだ。
今日の聖書の中でイエスさまの言われていること、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」は、ほんとうにそのとおりだと思います。友だちが悪いことをしていたら「だめだよ」と言ってあげること、その友だちが「ごめんなさい」と謝ったなら「いいよ」と赦してあげること、これが人と人との関係において大切であることは、みんなも賛成してくれるでしょう。
さて、その上で少し考えてみましょう。ある友だちが、自分より年上で、みんなの人気者で、ケンカも強い人であることを想像してみてください。もしあなたが、その友だちが悪いことをしているのを見つけたとき、「だめだよ」と戒めることができるでしょうか。
「もちろんできるよ」という人もいるでしょう。だけど、自分の胸に手を当てて、心の中を静かにのぞいてみるとき、それが間違っていると分かっていても、「だめだよ」と戒められる人と「だめだよ」と戒められない人がいる、という自分に思い至るかもしれません。
実をいうと、僕も、自分の胸に手を当てて心の中をのぞいてみると、それが間違っている(それが誰かを傷つけることになってしまう)ことが分かっていても、「だめだよ」と言うことに躊躇してしまうことのある自分に思い至ります。
それはなぜなのでしょう。それは、僕たちが、ことの善悪の前に(それが間違っているかそうでないかの前に)、多数派で力の強い側に属していたいという心を優先させてしまうからだと思います。たぶん僕たちは、少数派で力の弱い側にいたくない、不安だから、という心を持っているのです。そしてそこから、間違っていると分かっていても「だめだよ」と言うことに躊躇してしまう心がむくむくと生まれてくるのです。
僕たちはまずそのことを認めたい、と思います。そんな弱さを持っていることを。
少し難しいかもしれないけど、次の大沼保昭さんの文章を読んでみてください。「(略)むろん、私たち大多数の人間は凡人であって英雄ではない。そうで在る以上、実際に戦争になってしまったら、たとえそれが不義の戦いとわかっていても、国家命令への不服従という行動はとれないかもしれない。しかし、そのような弱い私たちでも、勇気ある行動をとる人々(15年戦争時に命がけで反対した人たち)をひそかに励まし、あるいはすくなくとも「村八分」にしないことはできる。そして何よりも、私たちは戦争になってしまえば国家命令に抵抗できないだろう自分の弱さを知っているからこそ、自分をそのような状況に追い込まないよう、弱い自分でも声を出すことのできるうちに、戦争に向かうような国家政策に対しては、「否」といっておかなければならない」。
※「戦争」を「いじめ」「原発問題」など身近な問題に置き換え、「国家」を「多数派で力の強い側」と置換えて読んでみてください。
僕たちが、自分の弱さを認めつつ、自分なりに考え、自分なりに行動することが、とても大切なことなのだと思います。それをイエスさまは、「悔い改め」(ギリシャ語でメタノイア<心(考え)の方向転換の意味>)と言われたのだと思います。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□57番 「しゅよわたしをあわれみ」
□改訂34番 「キリストの平和」
お友だちに嫌な事しちゃったな。家族に嫌な事言っちゃったなという気持ちでいる時、許してもらえたらどんなに嬉しいかを体感してみよう!
<用意する物>
(紙・えんぴつ・消しゴム・箱)
①学校で、家で、放課後や学童で、近所の子と遊んでいる時、友だちや家族(お父さんお母さん妹弟兄姉祖父母)などに対して意地悪をしたり、悲しい思いをさせたりした事を紙に書いてご覧。1人1枚でも2枚でも(小学生低学年や幼稚園保育園児はヒントを与えたり、聞き取って代筆したりしてサポートする)書く。
②書いたら箱に入れる。さっきまで軽い箱だったのに今は持てないくらい重い箱になっています。みんなのした嫌なことがぎっしりつまっているから。
③どうしたらこの箱軽くなる?一緒に考える時間を設ける。「許してもらう」→「どうすれば許してもらえる?」→「いけなかったな悪かったなと思う」
④反対に友だちに嫌なことされたら怒りたくなるよね。でも友だちに「ごねんね、もうしないよ」って言われたら許してあげるよね。
⑤みんなの嫌な気持ちで重くなったこの箱、みんなが悪かったなと思えばきっと許してもらえるはずです。そうすると気持ちが明るくなって、心が軽くなるね。そうするとこの箱も軽くなるのです。
⑥すべてを御存じの神様に今日の学びを報告しつつ、友だち同士、家族同士、嫌なことを見たり聞いたりした時にはいけないよと言える勇気を与えてくださいとお祈りしましょう。
Ⅰ.
①昨日までの1週間で家族やお友達とのやりとりで、とても腹の立ったことを思い出して、書いてみましょう。
②自分がしたことで誰かを怒らせたかも、と思ったことを思い出して書いてみましょう。→発表できる子どもは発表する。イエス様は、そういう時どうしたら良いとおっしゃったでしょうか。
Ⅱ.
説教の中で紹介した大沼保昭さんの文章にある「戦争」を身近な問題に、「国家」を「多数派で力の強い側」に置換えて、自分たちならどう考え、行動するかを考えてみよう。自分は絶対正しいと主張する人たち(自らを省みない人たち)と、自分の弱さを自覚しつつ正しいとは何かを考える人は、ふるまいが違うことを話してみよう。きっと、子どもたちのほうが、直感的にこの違いがわかるはずだから。