・この箇所は二部に分かれている。「不正な管理人のたとえ」(1-9)と「富に対する姿勢」(10-13)である。これを一つの物語としてまとめて、解釈していくことは難しい。だから、分けて解釈しても良いのではないだろうか。
・「不正な管理のたとえ」の話しは、主人の財産を浪費し、それがばれそうになるとさらに証文を書きなさせるという二重の主人に対し不正をするのだが、危機に直面してなりふりかまわず生きのびる道を賢くさぐったという管理の利口さを褒めていると思えるが、むしろ、「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」ということに主旨があるのではないだろうか。
・後半は、前半の富に対する忠実と相いれないように神への忠実さを言っているように思える。神への忠実は、富への自由へと向かい、神と同列に富を扱うのでなく、神に従うから富をも支配することになる。
・つまり、富の用い方である。
・強調すべきは、富の用い方である。経済の営みの中で、富が常にある。これを、不正の富でも、友を助けということでは良いものとされる。富が自分だけに使われるのでなく、友のために使われるとき、それは「ごく小さな事(富)に忠実な者は、大きな事(神)にも忠実である。」ということにつながるのである。
私たちは、お金がなくては困ってしまいますね。でも、イエスさまは、「あなたがたは、神と富とに仕えることが出来ない。」言われるのです。困りましたね。富がなければ人を助けることでいませんよね。そこなのです。富をもつことをイエスさまはだめだといっているのではないのだと思うんです。どう富を用いるかということが大切だということです。富をどう用いるかということは、神さまにとって小さなことかもしれませんが、この小さなことを忠実に用いることが、大きなこと、神さまに忠実になることであるというのです。
では、小さなこと、富に忠実であるということは、どんなことかというと。富を自分のためにためていないで、友の助けるために一生懸命、考えて実行することなのだ。それは、私たちのために命さえ投げ出して、十字架にかかり、私たちを神さまの友だちとしてくださったイエスさまの御心とつながるのだね。富を自分を守るだけに貯めていくのでなく、友達を助けるためにささげることに一生懸命であろうね。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□49番 「しゅイエスのひつじ」
□47番(改訂版) 「小さい子どもの」
画用紙に色々な色のクレヨンを使い少しずつの範囲を塗りこめていく。
その上を黒のクレヨンで塗りつぶす。
最後にくぎや鉛筆やお箸など先がとがっているもので、黒い部分を削り絵を描いていく。
→できれば見本に荒い作業で完成したものを作っておき、比べてみてもおもしろい。
→色も黒も、きちんと塗りつぶさないときれいな作品にならない。
※みんなが大切にしているものは何ですか。
※イエス様がおっしゃる「本当に価値のあるもの」とは何でしょうか。