・ここでも注目したいのは、この話が誰にかたられたかということである。「ファリサイ派の人々や律法学者たちは」とあるようにファリサイ派の人と律法学者に語られています。彼らは当時のユダヤ社会を理念と実践で支えた人々である。ここでいう99匹の羊かもしれない。一方、「徴税人や罪人」という登場者がいる。彼らは律法学者、ファリサイ派の人からユダヤ律法社会から社会の外にいるべき人として決められた罪人である。1匹の羊かもしれない。このファリサイ派、律法学者にとって、社会の外にいる少数者にイエスは目を留められた。
・社会の外にいる一匹がイエスに、神に心を向けたとき、すなわち悔い改めたなら、それは神にとって大いなる喜びであると宣言する。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」と。
・ここで強調すべきは、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」という言葉にあるように「喜び」である。失われた者に対する神の愛が注がれ、それはイエスによって、失われた罪人が回復する喜びが私たちの内にあることを心にとめたい。
・「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。」とある。「皆」という言葉に注目したい。イエスの交わりは、社会において交わりを断たれている人々が「皆」、喜び集うところである。教会の有様ではないだろうか。
私たちは、在日韓国人の多い教会の方々と一緒にイエスさまと礼拝をしたことがあります。
みなさんは、知っていてほしいのです。日本社会の外に出され、重い、苦しい差別を私たち日本社会から受け、経済的にも貧しさに堪えなければならなかった人達がいたということを。在日朝鮮人の人たちです。みながいろいろと苦労をしていました。でも、社会の外にて苦しんでいる人をイエスさまは見捨てませんでした。
Sおばあちゃんは、数十キロの道を歩いて、イエスさまのお話を聞くために教会に行っていたそうです。なぜ、イエスさまだけが、おばあちゃんの苦しみ知ってくださっているとSおばあちゃんは知っていたんでしょうね。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。」と言うようにね。
Sおばあちゃんのために教会が出来ました。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」とあるように「大きな喜び」が神さまから与えられたのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□108番 「くじゅうくひきを」
□55番(改訂版) 「小さい羊が」
1)羊のぬいぐるみを用意し、部屋のどこかに隠す。みんなで探す。
2)机の上で。模造紙など、机の大きさに合う紙に山や森の絵を描き、(アドベントカレンダーのような)閉じてある窓を作る。その中の一つに紙に描いた羊を隠し、皆で探す。
イエス様のおっしゃる「まいごのひつじ」とはだれのことでしょうか。