・イエスの弟子となることはどういうことであるかということである。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」とあるように厳しいお言葉である。「憎む」ということは、「より少なく愛する」という意味である。自分にとって大切であるものは「より少なく愛する」ものでしかない。
・十字架は、自分の大切にしている思い、欲望をささげ、苦しみに耐えることである。
・「自分の十字架を背負って」と言われたイエスも神の子であるあることを固守することなく、十字架の死に至るまで従順であられた方であるということを忘れてはいけない。
・自己欲を限りなく満たしていく社会の中にあって、私たちの歩み方が示されている。これを「憎む」ことであるという。凄い挑戦を受けることになる。弟子となるということは厳しいことであるが、ここに十字架の真理があることを考えさせたい。
めぐちゃんのお母さんは、めぐちゃんが生まれたとき、お医者さんからあかちゃんに「知的な障がいがあること」と知らされました。お母さんは、悲しくて、苦しく、どうしたらよいか分かりませんでした。なぜ、私のこどもが障がいをもっているのか受け入れることがなかなか出来ませんでした。
牧師さまは、赤ちゃんに「めぐみ」と名を付けました。でも、お母さんはどうしてもこのことがめぐみに感じることが出来ませんでした。普通の楽しい子どもとの日々を捨てなければなりませんでした。病弱だし、手のかかることばかりでした。お母さんにとって、「十字架」でした。
でも、イエスが言われたように「十字架を背負った」のです。めぐちゃんと一緒に生きると、そうすると障がいがある子の将来が心配になりました。働くところを作らなければ思うようになって、障がいのある子の働き場をいくつも作っていきました。そう、めぐちゃんだけでなく他の障がいのある子にも働く場を提供できました。十字架を負う者はイエスさまも負ってくださり、大きな働きを出来るようにしてくださいます。
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」めぐちゃんのお母さんは、イエスさまの弟子になったのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□31番 「キリストイエスは」
□119番(改訂版) 「主に従うことは」
1、自分の大切なものを紙に書いて、紙ヒコーキを織る。
2、紙ヒコーキが入るくらいの空箱や空筒を的にして、ヒコーキを飛ばして入れる。意外と難しいです。空箱にイエス様の描いて貼ると良いですね。
3、紙ヒコーキは、自分の大切なもの。空箱の的はイエス様。大切なものを投げ捨てて、イエス様のあたたかいふところに飛び込みましょう。
4、みごと入ったら、先生と「おめでとう」言ってムギューっとハグしましょう。
・大切なもの(宝物)は何ですか?
・では、その大切なものはもともと誰のものか考えてみましょう。
・大切な何かを捨てるとはどういうことでしょう?捨てる場所は、イエス様の十字架の下(足元)だと考えてみてください。
・すべてを捨てて、イエス様の胸に飛び込んでみたら、どんな気持ちかな?