人々の集まりが、一見、争いもなく平和が保たれているように見えても、内実は一部の弱い立場の人が圧迫され、虐げられており、その犠牲のゆえに全体のバランスが保たれていることがある。このような中で、本来のあり方を取り戻そうとするとき、大きな痛みを伴うことがあります。
◎イエスの言葉は、表面的な理解では捉えにくいので、今週の言葉をよく味わい、自分なりに消化して、子供たちに伝えたい。その場合、教師の持ち前の表現で充分である。このテキストはご参考まで。
◎今週の聖書のポイントは、特に「イエスの弟子」とは何者だろうか、ということを、根本的に理解することにある。「イエスの弟子である」とは、何か特殊なグループに属することではない。――そうではなく、「自分の欲望や執着から解放されて」、「真実に誠実であろう」と自覚する者たちである。師イエスの一生涯は、「真実を生き抜く」そのもの。「真実はひとつ」。――真実に従う者が‥‥弟子。
◎「イエスの弟子」「真実に従う者」は、勇気を必要とする。しかしながら、「真実」と「勇気」は常に、神ご自身からやって来る。「イエスと弟子」は共に、神よりの援護のもとにある。実のところ、「イエスの弟子」とは、「インマヌエルなる神と共に」、「真実に出向く者」。「勇気」も‥‥神から来る。
わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終るまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。(ルカ12:49)。
私たちの人生は、「過去」か「未来」かに囚われた人生である。それはちょうど、「バックミラー」(過去)を見ながら自動車を運転しているか、遙か「地平線の彼方」(未来)を見ながら運転いているようなもの。「現在を生きる」ことは‥‥まれにしかない。現在が唯一の現実(リアルティ)であり、今のみが真実である。この今を見よう‥‥私たちは皆、「神と共にある」。このまさに瞬間、「神は私たちの内側に存在し」、同時に「神は私たちの外側に存在する」。――その自覚、気づきが、「過去の囚われ」から「未来の幻想」から、私たちを自由にする。――つまり、「幻想や囚われからの‥‥自由」である。
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」 イエスは何を言おうとしているのだろうか!?「地上に火を投ずる」とは!?――それは、このまさに瞬間、「神は私たちの内側に在り」、同時に「神は私たちの外側にも在る」という現実に、「気づかせよう」としている。私たちの頭は、過去にさ迷い、未来を夢見て生きている‥‥眠り続けている。
「火」とは、眠り続けている私たちを揺り起こす、熱き『神の揺さぶり』。その火は『神の愛の炎』だ。
(神さまの愛は「優しい」と共に、「厳しい」。神さまの愛は、「私たちを成長させる愛」だから。その辺のことを、子どもたちと話し合ってみたら、とおもいます。)
イエスは、私たちにパワーを注ぐために、この世にやって来た。私たちの内面に松明(たいまつ)を灯(とも)すために、弟子を選んだ。松明とは、「聖霊」のことである。あのバプテスマのヨハネは言う。イエスのことを『その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる』(ルカ3:16b)と。
ペンテコステ(聖霊降臨日)のとき(使徒言行録2:1以下)に、「一同が一つに集まっていると、一同は聖霊に満たされた」。「一同が一つに集まる」とき、「全体はひとつ」になる。――そこで初めて全体が一つになる。――人の心が一つになる。おのおの乱れた頭、頭、頭が静まる。それは共通の体験となる。それは無垢である。――私たちが無心になったとき、始めて「神われらと共に在す状態」‥‥一同が全面的な静穏さ‥‥全面的な調和‥‥一つなる境地にいる。歓喜、至福、祝福体験の瞬間である。
イエスは、当時自分と共にいた弟子たちに対して、ジレンマを抱いていた。弟子たちが「その火に既に燃えていたら」ということは、弟子たちがなかなか成長しないことを、憂えている。ゆえに、イエスは「受けねばならない洗礼」があった。――これこそ十字架の道である。苦難の道である。――が、その道が結局は、イエスと共に「私たちをも復活させ」、私たちに「火を投ずる」ペンテコステをもたらした。
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」(同12:51~53)ここでイエスが言っているのは、「仲良し集団を超えなければならない」と。――それは職場でも、仲間内でも、家庭でもそうだと言う。――それは「個人主義」の強調ではない。そうではない。個人主義を信奉している人は、単にエゴイスト(利己主義者)でしかない。――ちょうどその反対を言っている。『本来のあなたであれ!!』と言う。「自分」と言う“自我”を落とせ、と言う。それは、「神と一つ」(「全体と有機的に一つ」)の人。「弟子(disciple)」とは、「訓練(discipline)」の語源から来ている。『真実に誠実な者の訓練』。それは「神への明け渡し」の訓練。「神とひとつ」の訓練だ。ハレルヤ。
(「イエスの弟子」とは、「神の愛によって成長させられる者」であることを、伝えたいです。)
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□46番 「やまにはけわしい」
□120番(改訂版) 「主イェスの道を」
今日は2つのゲームをやりましょう。人数によりますが、きっと室内でできるのではないでしょうか。
それぞれのゲームで、指示をするリーダーが必要です。また、リーダー以外は目隠しをしてやると難易度があります。
特にゲーム2は動きがあるので、教師の方々は見守りをお願いします。
~ゲーム1~
リーダーは前に、子どもたちは散らばって立ちます。
1.リーダーが「イエス様が言いました。座りなさい。」全員座ります。
2.「ジャンプしなさい。」これは、“イエス様が言いました”とは言っていないので、その場から動きません。
3.“イエス様が言いました”と言っていないのに動いたり、リーダーが指示した動きと違うことをやったら抜けましょう。
4.最後の1人になるまで続けます。
~ゲーム2~
1.おしくらまんじゅうのように、隣の子どもと腕を組み、背中を合わせて円陣を組みます。
2.リーダーが「左」と言ったらみんなで左に、「右」と言ったら右にドドドッと移動します。
3.リーダーは前後左右、左回り、右回り、しゃがむ、ジャンプとみんなを操縦します。
~ゲーム1~では、リーダーの指示をきちんと聞き分け、その言葉を信じて行動する力が必要です。
~ゲーム2~では、リーダーと仲間たちを信じて動かないとできません。
説教の終わりにあるように、仲良しで周りに合わせることだけではなく、神さまの言葉に耳を傾け、自信を持ってすすむように伝えたいです。
・こども讃美歌120 主イエスのみちを
・分裂した方がいいことってある?具体的に挙げてみよう。
・「形だけの平和」ってあるだろうか?それって良いこと?
・イエス様の言う「火」って何だろう?