・自分が裁判官みたいに他の人々を自分の基準で裁くのではなく、神さまが憐れみ深いように私たちも他の人々に対して憐れみ深く、寛大に生きる必要を感じる。
・6章37節「人を裁くな」から始まる今回のみ言葉は、他人への憐れみ、赦しが大きなテーマである。ところでこの文脈の中での「与えなさい」とは、物質的な援助
・支援の意味での「与え」というより、他人を赦す意味での「与え」である。
・私たちが神さま、そしてイエス
・キリストによる大きな愛と赦しを受けているのに対して、自分が他人に対して厳しくなっていたり、自己中心的な形で他人を評価し裁いたりする過ちを犯していないか、ふり返る。またそのような過ちが実際自分自身にどういう形で返ってくるか考えてみる。
・38節に描かれている、「押入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして」という表現は、売り手が買い手に対して升をいっぱいに満たしてくれる行為。つまり買い手の支払いに対していっぱいに、それ以上にもたせようという気になっている様子を表現しているのである。私たちが他人に対して憐れみ深いなら、神さまはそれ以上わたしたち一人ひとりを憐れみ深く愛してくださることを例えている。
イギリスのある村にパン屋さんがありました。そのパン屋さんの主人に毎朝、パンの材料としてバターを納めて生活する貧しい農夫が一人いました。ある日パン屋さんの主人は毎日農夫から貰っているバターの量がすこし少ないかも知れないことに気付きました。そしてバターの量を秤で計ってみたら定まっている量よりバターの量は少し足りませんでした。これに怒りを覚えた主人はその農夫をすぐ告発しました。それで貧しい農夫は裁判を受けるために裁判官から調査を受けることになりました。
裁判官はその農夫から色々事情を聴きました。そこでパン屋さんの主人が知らなかった事実が一つ出てきました。貧しい農夫の家には秤がなかったのです。秤をもっていない農夫は毎回バターを作って、パン屋さんの1ポンド分のパンの大きさに合わせてバターを切って包装し、パン屋さんに送っていたのです。実はあるときからかパン屋さんの主人は自分の利益のために1ポンドのパンの量を減らしていました。農夫はもちろん減らされたパンの量に合わせてバターを送ることになり、それを知らなかったパン屋さんの主人は農夫のバターの量が少ないことを告発したのです。
これは誰の過ちでしょうか?パン屋さんの主人にとっては結局、自分の利益のためにパンの量を減らした結果が自分に返ってき、しかも農夫に対して厳しかったことで自分の隠し事が明らかにされてしまった訳です。私たちが誰かを責めたり、憎んだりすること、それはいつか自分に返ってくるということを教えてくれる話です。
逆に他の人々に対して優しく、憐れみ深く振る舞うなら、それを見ていてくださる神さまはさらに大きく私たちを憐れんでくださいます。今日の「与えなさい。そうすればあなたがたにも与えられる」というイエスさまの言葉の意味は、私たちが他の人々を厳しく責めるのではなく、赦す心と憐れみをもって接するならば、それがいつか私たちに返ってくること、そして神さまも私たちの過ちに対して憐れみ深く赦しを与えてくださるというメッセージです。
実際イエスさまは、私たちの過ちと罪を代わりに背負って十字架の苦難を受けられたのです。それだけですでに私たちは計り知れない大きな憐れみと赦しを受けています。そのような憐れみと愛を受けている人として、それを自覚している人として、私たちも自分以外の人々に憐れみ深く、赦しと優しさを「与える」人になることを心がけるべきましょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□129番 「どんどこどんどこ」
□106番(改訂版) 「どんどこどんどこ」
<用意するもの>
模造紙(5~6人の場合:人数によっては半分の大きさに切ったり調節してください。)新聞、古雑誌、チラシなど、のり、はさみ、マジック
・テーマ「神さまから与えられているもの」(みんなで、1枚の模造紙を用います。)テーマに合うものを雑誌などから切り取ってどんどん貼っていきます。貼り方も書き込みも自由です。どんな作品ができるかな?
□6月の第2曜日は、「花の日」です。お花を持って、近くの老人ホームなどの施設を訪問したりいつもお世話になっている教会の方にお花をプレゼントしても良いですね。
・今日のみことば「与えなさい。そうすればあなたがたも与えられる。」とはどういう意味か考えてみましょう。
・良いことをした分だけ、自分にも良いことが返ってくるのかな?
・たとえば、お友達からおやつを分けてもらったらうれしいよね?じゃぁ、今度は自分のおやつをお友達に分けてあげたら、お友達は嬉しい?お友達が嬉しそうにしていたら、みんなも嬉しい?
・神さまから与えられているものってどんなものがあるか考えてみよう。
・すでに、ありのままの私たちを神さまは愛されているのです。