・イエス様はたとえ目の前にいらっしゃらなくても、聖霊の神様が私たちと一緒にいて下さり、私たちに生きる力を与えて下さいます。
・聖霊降臨は不思議な出来事です。しかし、「死んだようになっていた」弟子たちが、この聖霊によって「いのち」を与えられ、宣教者として力強く歩み出すのです。
・聖霊降臨の出来事によって教会が生まれ、イエス様の福音は世界中の人々に伝えられていきます。
・「弁護者」は「助け主」とも訳される言葉で、この場合「聖霊」を指しています。
・聖霊は「プネウマ」と言われ、「風」や「息」という意味です。
・聖霊降臨の様子は使徒言行録第2章に詳しく書かれています。
・聖霊は視覚的に認識できるものでも、言葉で表現できるものでもありません。聖書は視覚的にも言葉としても表現できない聖霊を、読者の理解のためにあえて「炎のような舌」と表現しました。
・人の言葉はバベルの塔の出来事(創世記11章)によって散らされました。今、聖霊降臨によって、和解と一致がもたらされます。
弟子たちにとってイエス様は素晴らしいお話をし、不思議な奇跡を行う凄い先生で、みんな大好きでした。自分たちがそんなすごい先生の弟子であることは、彼らにとってとても自慢でした。ところがそんな先生が十字架にかかって死んでしまうのです。弟子たちは、頼りにしていた、自慢だった先生がいなくなり、悲しみとさびしさでいっぱいでした。それだけでなく自分たちもイエス様を殺したユダヤ人やローマの兵隊に捕まるのではないかと怖くてびくびくしていたのです。それで弟子たちはみんなで一軒の家に集まり、鍵をかけてこっそり隠れていました。そこにイエス様がいらっしゃったのです。イエス様は死んでいたのに復活されたのです。復活の体は生きている時の体とは違いますから、部屋の壁も通り抜けて来られたのです。まるで幽霊のようですね。弟子たちもそう思いました。ところがイエス様は「幽霊ではない」と言って、「足を見なさい」と言ったり、焼いたお魚を食べて見せたりされたのです。幽霊じゃないと知って弟子たちはとても嬉しくなりました。またイエス様に会えたのです。そしてこれからまたイエス様と一緒にいることが出来ると思いました。しかし、イエス様は天の父なる神様のもとに帰らなければなりませんでした。また弟子たちは取り残されてしまうのです。このままでは弟子たちがまた元気がなくなってしまうのはイエス様にもよくわかっていました。そこでイエス様は弟子たちが悲しくならないように、さびしくならないように聖霊を弟子たちのところに送られるのです。
ある日のこと、いつものように弟子たちは集まっていました。ところが、突然風が吹いてくるような大きな音が聞こえ、家中に響き渡りました。それだけではありません。舌のような形をした炎が現れたかと思うと、分かれて弟子たちの頭の上にとまったのです。すると弟子たちはいろいろな国の言葉で話し始めたのです。イエス様が十字架にかかってから、弟子たちの元気はなく、口数も少なくイエス様のことを話そうとはしませんでした。ところがこの出来事によって、突然イエスさまのことをたくさん、それも外国の人がわかるような言葉で話し始めたのです。これがイエス様のことが世界に広まった初めの出来事です。ですから、この出来事は教会の誕生日と言われています。
聖霊は目に見えません。だから聖霊はこんなもんだよということができません。皆さんは、風を見たことがありますか。誰も見たことがないと思います。風も目に見えないからです。見たことがあると思っている人も、きっと風そのものを見たというより、風で動く木の枝やこの葉を見て、「あっ、風が吹いた。風がある。」と思ったのかも知れませね。聖霊も風と似ています。聖霊は見えませんが、聖霊の力が働いたことは分かるのです。弟子たちがイエス様が死んで元気がなくなっていたのに、イエス様が聖霊を送られると、イエスさまの十字架の意味がよくわかって元気になりました。そこから聖霊が働いたことがわかるのです。私たちにも聖霊は働いています。心を神様に向けると聖霊が働いていることを感じるようになります。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□42番 「おことばしんじ」
□96番(改訂版) 「聖霊よ、きてください」
「わたしは道であり、真理であり、命である」このみことばを伝言ゲームで伝えてみよう。
・人数によって2列、3列に並んでもよい。(一列の人数は4~5人くらい)
・先頭の人がみことばを書いたカードを一枚ずつ持つ。
・そのみことばを次の人に伝えていく。耳元で小さな声で。(何列もグループができる時はスタートの合図で一斉に始める)
・最後の人は紙をもらい、そのみことばを書いて待つ。
・皆が伝え終ったら、最後の人はそのみことばを読む。
・合っていたら拍手!そのあとみんなで言ってみよう。
・聖霊はわたしたちにどんなことを伝えてくれるかな?
お祈りをしている時、賛美歌を歌っている時、みことばを学んでいるとき、神さまが一緒にいて下さることを感じることはあるかな?