「復活のキリストの方から、主イエスの方から我々に出合ってくださることを伝える」。
足取り重く、二人の弟子は歩いていた。エマオ村は、エルサレムから11㎞(=60スタディオン)ほどの距離。二人は、主イエスの十字架の出来事について、話していた。対話をしているというよりも、互いにぼそぼそと自問自答している様子ではなかったか。そのとき、いつの間にかもう一人、彼らと一緒に歩いている人がいた(13-16節)。時が時でもあり、弟子たちは心を閉ざし、深く傷ついている。
この記事の重要な強調点は、まず、復活のキリストが、ご自身を顕してくださっているのに、彼らには、目が遮られて、それがイエスだとは分からなかった、「見知らぬ人」であった、ということにある。「目が遮られて」という表現で、ルカは霊的な目のことを言っているのである。
彼らは、近づいて話しかけられた「見知らぬ人」を警戒するでもなく、心を開いて対話を始める。まず、主イエスが「歩きながらやりとりしているその話は何のことか」と問いかけ給う。それにたいして「二人は暗い顔をして立ち止まった。」
二人は、絶望していたのだ。望みをかけていたものが潰えたとき、私たちは自問自答する。あれは何だったのだろうか。自分は一体どこにいるのだろうか。自分は何を支えに生きて行くことが出来るのだろうか。自問自答というのは、モノローグであり、独り言である。二人は道々会話をし、議論してきたのだが、それは交わらない会話、交わらない議論であった。互いに、独り言を言い交わしていただけ。目が遮られていたからである我々もしばしば独り言を言う。心の中をのぞいてみるといつも独り言を言っている。特に心に挫折感があるとき、引っかかるものがあるとき、苦しいものがあるとき、憎しみや恨みがあるとき、総じて心の平安が乱されているときは、激しく独り言を言っているのだ。暗い顔をして言っているのだ。弟子たちのように、友と話していても、独り言を言っていることがしばしばである。
けれども、独り言というのは実は存在しない。頭の中をぐるぐるぐるぐる独り言が回る、そう思うことは度々であるが、その独り言を見知らぬ人は聞いている。そしてその方と知らず知らずに対話をしているのだ。独り言を言うとき、それは自分を超えたお方との対話なのだ。見知らぬ御方がだれであるか――。私たちは、復活のイエスだと知っている。
わたしの生涯は煙となって消え去る。骨は炉のように焼ける。打ちひしがれた心は草のように渇く。わたしはパンを食べることすら忘れた。わたしは呻き、骨は肉にすがりつき、荒れ野のみみずく、廃墟のふくろうのようになった(詩102編4-7節)。
詩編詩人は、惨めな自分をこのように歌っている。独り言であり、深い呟きである。けれども、完結した独り言ではなく、自分が、だれに向かってその心情を吐露しているかを知っている。
独り言が終わる頃に、彼の心ははっきりと祈りの心になっている。「主よ、あなたはとこしえの王座に着いておられます。御名は世々に渡って唱えられます」(102編13節)と、信頼の言葉、信頼の祈りに転じるのである。独り言、そのときこそ、魂は主との対話を促し、心は主と対話しているのだ。それは祈りなのだ。
弟子たちも、失意の中で、思いのたけをこの身知らぬ人に話した。順々に話した。その見知らぬ人に、祈るようにして話したのだ(⇒28-24節)。
主イエスはそれに答えられます。つぶやきが、はっきりと対話の形を取ってくる。イエスの応答を聞いたからである(⇒25-27節)。
独り言のつぶやきが、主との対話となり、そして答えをいただく。これは私たちがまだイエス
・キリストとの出会いを与えられる前から、行なっていたことでもあるのではないか。心にわだかまりがあるとき独り言を言う。挫折があるとき独り言を言う。大いに言ったらよい。それを聞いておられる方がすぐ傍におられるのだから。そして無意識のうちに、そのお方との対話を始めているのだ。だから、そのすぐ傍のそのお方を意識すれば、その独り言は祈りとなり、対話となる。そして、必ず、その時その時の答えが与えられる。
そのお方はイエス。独り言をしっかりと聞き、叱責し、けれども優しくその意味を説き明かしてくださった方がイエス、挫折した孤独な心と対話をしてくださっていた方。私たちの独り言をしっかりと受け止めてくださる御方、そのお方がイエス、復活されたキリストなり。それを見るのは、聖霊によって開かれた心の目をおいてほかにない。
暗い顔をして、独り言をつぶやいていた弟子たちの心は、復活の主、イエスとの対話の中で、識らずして燃えていたのだ。独り言は、それで完結すれば、心に燃えるものは何もなく、ただ寒々とした荒野を彷徨うばかり。けれども、その独り言を主が聞いていてくださることを知り、祈りとなるなら、その対話が深まれば深まるほど、心に燃えるものも与えられる。人知を超えた神の平安が、おとずれ、静かに心が燃えるのだ。復活のキリストが語りかけ、働きかけてくださるのだから。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□115A(B)番 「イースターのあさはやく」
□54番(改訂版) 「ガリラヤの風かおる丘で」
<材料>
・色画用紙(赤)
・クレヨン、マジック
・ハサミ
お弟子さんたちはイエス様からお話を聞いたとき「心が燃えていた」と話しています。皆さんも心が燃えることを考えて見ましょう。そして色画用紙(赤)を炎の形に切って、そこに自分の心が燃えることを書いてみましょう。
①色画用紙(赤)に炎の絵を描き、切り取ります。
②自分の心が燃えることを書きます。話してみよう
・話した時、なぜ2人の「心は燃えた」のでしょうか。
・「心が燃えた」らどんな風にしたくなるでしょうか。