・イエスをまことの王、救い主として自分の心に迎えるということを共に考えたい。
・エルサレム入城は人々にとっては喜びの出来事であったが、その喜びはすぐに憎しみと怒りに変わるのである。イエスは人々の罪の心に入城されたと言える。
・ゼカリヤ9:9に「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って」とあり、ろばに乗ってのエルサレム入城は平和を与える王としての預言の成就のである。
・人々が自分の服や木の枝(マルコ11:8)などを道に敷いたり、枝を持ったり(ヨハネ12:13)して、誰かを迎えるというのは人々が自分の王を迎えるときの態度であった。
・「石が叫びだす」とある。イエスが王であることに対する人々の理解は間違っていたが、イエスを王として迎えたこと自体は正しく、誰も人々の讃美を止めることはできないとイエスは言っておられるのであろう。
みんなはロバを見たことがあるかな?ロバは、馬に似ているけど、馬より小さくて、おとなしくて優しい動物です。そんなロバに、それも子どものロバに乗ってイエス様はエルサレムに向かわれたのです。
「新しい王様だ!」「救い主イエス様が来られるぞ!」「みんなでイエス様をお迎えしよう!」都エルサレムにそんな人々の声が響き渡りました。イエス様が救い主としてエルサレムに入って来られるのです。人々は木の枝や自分の服を道に敷いて、また木の枝を手に持ってイエス様をお迎えしようと準備をしています。自分たちの王様をお迎えするときにそのようにするのです。
やがて「ワー!」という歓声と共にイエス様がエルサレムに入って来られました。イエス様はロバの子に乗っておられます。旧約聖書に王様はロバに乗って来られるとあるからです。けれども、木の枝を振ってイエス様をお迎えしていたある人が心の中で思いました。「あれ、この王様はあまり強そうじゃないぞ。聖書には確かに王様はロバに乗って来られると書いてあるけど、それにしてもなんだか弱そうだ。こんな王様で本当に私たちを守ってくれるか心配だな・・・。」そんなことを思ったのはこの人だけではありませんでした。他にも心の中で同じようなことを思った人が何人もいたのです。人々は王様を待っていました。けれども、人々が待っていた王様は、敵の国から自分たちを守ってくれる強い王様でした。イエス様は確かに王様だったのですが、そのような他の国の人々と戦う王様ではありません。どこの国の人であっても関係なく、みんなを大切にしてくださるみんなの優しい王様なのです。
人々はイエス様を自分たちの王様としてお迎えしたのに、こんな人は私たちの王様じゃないと考えて、すぐにイエス様から離れていってしまいました。離れていったばかりではありません。こんな王様はいらない、殺してしまえ、十字架につけてしまえとまで言ったのです。イエス様は何日かして本当に十字架につけられて殺されてしいました。でもイエス様は、最初からそのようにして人々がご自分から離れていくことを知っておられたのです。人々が自分から離れていくと分かっていても、それでも人々のことを大切に思っておられたから、人々の王様としてエルサレムに来られたのです。
イエス様は私たちの心にも優しい王様として来てくださいます。「こんな悪いことばかりしている子の心はいやだ」と言ったりはなさいません。どんな子の心にも必ず来てくださいます。けれどもイエス様は「ごめんなさい」と言ってお迎えすることを待っておられるのです。私たちが「ごめんなさい」と言ってイエス様に赦していただくとき、私たちの心の中は元気になるんだね。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□33番 「よろこべや」
□改訂版82番 「ダビデの子、ホサナ」
※「今週の金曜日はイエス様が十字架にかかったことを覚える日です」の説明をして、画用紙、または折り紙で十字架を作る。
※(イースターの準備)自分の絵を描き、切り抜いてストックしておく。
今週の金曜日はイエス様が十字架にかかったことを覚える日です。
□イエス様はなぜ十字架にかかったのでしょうか。
□イエス様のお苦しみを覚えて、1週間、生活の中でなにかを我慢することにチャレンジしてみましょう。たとえば「好きなお菓子を食べること」とか「好きな漫画を読むこと」とか…。