・使徒2:36~38にあるように、息子を殺した農夫たちにも悔い改めの機会が与えられることを伝えたい。
・たとえの「農夫たち」は、民の指導者たち、「僕」は神の言葉を伝えるために遣わされた旧約の預言者たちである。
・「家を建てる者の捨てた石」は詩編118.22の引用。家を造る専門家が必要ないと考えて捨てた石が建物の基礎となる石となった。イエスの死と復活を表す言葉として用いられている。
・イザヤ書(5:1~7)に、神がぶどう園を造られ、造られたぶどう園がイスラエルにたとえられている箇所がある。この箇所を背景にイエスはこのたとえを話されたと考えてよいであろう。
ある人がぶどう園を造りました。心を込めて時間もお金もかけて丁寧にぶどう園を造り、ぶどう園の主人になりました。けれども、ぶどう園が出来あがってしばらくして、この人は旅に出なければならなくなりました。そこで主人はある人たちにぶどう園を預けて旅に出たのです。旅の途中で主人はいつも故郷のぶどう園のことを思い出していました。「もうすぐ若葉の季節だ」、「こちらは日照りが続いているが、故郷のぶどう園は大丈夫だろうか」、「そろそろ実をつける頃だがどうだろうか」・・・。そして、収穫の季節になったので主人は故郷のぶどう園に僕を送ったのです。ぶどう園を預けていた農夫たちから約束どおり収穫を受け取り、賃金を払うためです。ところが農夫たちは、収穫を渡したくないと考えて送られてきた主人の僕をひどい目に遭わせて追い返してしまいました。主人は別の僕を送りました。しかし、その僕も農夫たちにひどい目に遭わされて帰ってきました。主人は三人目の僕を送ったのですが、その僕もひどい目に遭わされて帰ってきたのです。
主人は、ため息をついて「困った・・・」とつぶやきました。主人は考えて、大切な一人息子をぶどう園に送ることにしました。「この子なら農夫たちもひどい目にあわせたりせず、言うことを聞いてくれるだろう」、主人はそう考えて息子をぶどう園に送ったのです。けれども、主人の考えたようにはなりませんでした。農夫たちは、次にやって来たのが主人の息子だと分かって、この息子を殺してしまおうと相談したのです。そうすれば、ぶどう園が自分たちのものになると考えたからです。けれども、農夫たちが考えたようにもなりませんでした。主人はもう赦すことはできないと怒って農夫たちを懲らしめ、ぶどう園は他の人たちのものになったのです。
これはイエス様が話されたお話です。イエス様は、神様と人々のことをこのようなお話にして話されたのです。ぶどう園の主人は神様、農夫たちは人々です。人々は神様との約束を何も守らず、神様の言葉を伝えるために送られてきた人々の言うことも聞かずに自分勝手に過ごしていたのです。それで神様は困って、神様の独り子であるイエス様を人々のところに送ったのです。お話の一人息子はイエス様です。そして、お話のように、人々はイエス様の言うことも聞かずに、イエス様を十字架につけて殺してしまったのです。
ただ、イエス様のお話と神様がなさったことで違うところがあります。神様はイエス様を十字架につけてしまった人々にもう赦さないとは言われませんでした。神様はそれでも人々を赦そうとされたのです。神様は、私たちがどんなに悪いことをしても、ごめんなさいと言って帰って来るのを待っておられるのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□63番 「あさひうけて」
□改訂版127番 「朝日うけて」
※(イースターの準備)
イースターうさぎを描き、切り抜きイースターにみんなで飾る。
□「ブドウ園の主人の息子」とは誰のことをたとえているでしょうか。
□律法学者や祭司長たちが「手を下そう」としたのはなぜでしょうか。