・長いので兄が登場する部分は割愛した。そのまま話しても説教となるたとえ話である。
・悔い改めは単に反省ではなく、罪を認めて神へと方向転換をすることである。自分の罪に気づき父の許に帰って罪を告白しようとしたところから弟の悔い改めが始まっている。
・当時、子が父に財産を要求することは有り得ないことだった。また、父が生きているうちに財産を分け与えられることがあっても、子はそれを自由に使うことができなかったようである。申命記21.17~21に「ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば、」「町の住民は皆で石を投げつけて彼を殺す」と規定されている。この規定に従うならば、弟は死罪に相当する。
お父さんは毎日待っていました。息子が帰ってくるのを待っていたのです。お父さんには二人の息子がいたのですが、弟の方が家を出て行ってしまったからです。毎日、家の前に出て遠くを見ながら、遠くに小さく人が見えると息子かもしれないと思って近づいて行って確かめていました。しかし、いつも息子ではありませんでした。
もうだいぶ前のことです。弟が「私が頂くことになっている財産をください」と言ったのです。財産とはお金や牛や羊など、生活するための大切なものです。お父さんが死んだ時には、二人の息子がお父さんの財産を受け取ることになるのですが、弟は「今、私にください」とお父さんから財産をねだり、それを受け取って牛や羊は売ってお金に買えて、そのお金を全部持って家を出て行ってしまったのです。弟は欲しい物を買ったり、おいしいものを食べたり飲んだり、友だちと大騒ぎをしたり、無駄遣いをして、そのお金をすぐに使ってしまいました。お金がなくなるとそれまでは仲の良かったはずの友だちも離れていきました。住む家も、食べるものもなくなってしまいました。弟は、仕方なく働こうと思いましたが、仕事はなかなかみつかりません。やっと豚の世話をする仕事をみつけましたが、お腹が減って豚の餌でも食べたいと思うほどでした。その時、弟はお父さんの家に帰りたいと思いました。もう自分はお父さんから財産を受け取ってしまったし、それを全部無駄遣いしてしまったのだから、前のようにお父さんの家で、お父さんの息子として暮らすことはできないけれど、それでもお父さんにちゃんと謝って、お父さんの家で働かせてもらおうと考えたのです。弟は家に帰ることにしました。
お父さんは毎日、弟が帰ってくるのを待っていたのです。お腹を空かせているんじゃないか、怪我をしたり、病気になったりしてはいないか、辛い思いをしているんじゃないか、そんな心配をしながら弟が帰ってくるのを待っていたのです。今日もお父さんは、遠くを見ながら弟が帰ってくるのを待っていました。すると小さく人が見えました。弟が帰ってきたかもしれないと思って近寄っていくと、今度は間違いないようです。お父さんは走って行って弟を抱きしめました。弟は言いました「お父さん、ごめんなさい。もうお父さんの息子として暮らすことはできないけれど、お父さんの家で働かせてください。」けれどもお父さんは「今からご馳走を食べて、お祝いをしよう。死んでいるかもしれないと心配していた息子が帰ってきたのだから」と言って大喜びをしたのです。
神様はこのように私たちが神様のところに帰るのを心配しながらいつも待っていてくださいます。そして、私たちが神様と呼びかけると大喜びで迎えてくださるのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□34番 「かいぬしわがしゅよ」
□改訂版55番 「小さい羊が」
※(イースターの準備)
イースターエッグやひよこの絵をたくさん描き、切り抜く(イースターにみんなで飾る)。
□「放蕩息子」と「父親」とは誰の事でしょうか。