・悔い改めなければならないということ以上に、イエスが愛と忍耐をもって待っておられるということを伝えたい。
・前半(1~5節)は誰もが悔い改めなければならないということが教えられており、そのことを説明するためのいちじくの木のたとえと考えてよいであろう。
・エルサレムの神殿に犠牲を献げに行ったガリラヤの人々が、そこでピラトに殺され、その血が神殿での献げものに混ぜられたという事件が起こり、人々はその人が罪深い者だったと考えたのであろう。また、シロアムの池の近くにあった塔が倒れ18人が犠牲になるという事故があり、その人々についても罪深かったからと考えたのであろう。しかし、イエスは悔い改めを必要とするのは、悲惨な死に方や不慮の事故で命を落とした人たちだけでなく、すべての人だと教えられた。
・レビ記19.23~25に「果樹を植えるときは、その実は無割礼のものと見なさねばならない。それは三年の間、無割礼のものであるから、それを食べてはならない。四年目にすべての実は聖なるものとなり、主への賛美の献げ物となる。五年目にあなたたちはその実を食べることができる」とある。主人がこの年にいちじくの実を見つけても三年はそのままにし、四年目の実を主に献げ、五年目に食べることができるのである。
「桃栗三年、柿八年」という言葉を知っていますか。桃や栗は芽が出てから3年で実をつける。柿は8年で実をつけるということです。イエス様は、桃や柿でなく、いちじくという果物のお話をされました。
あるぶどう園の隅にいちじくの木が植えられていました。ぶどう園で働く人たちがその木陰で休んだり、そのいちじくの実を食べたりするためです。ところがこのいちじくの木、ちっとも実をつけないのです。それでそのぶどう園の主人が、ぶどう園で働いている一人に言いました。「このいちじくの木は、実をつける頃だと思ってからもう三年もたったが、ちっとも実をつけない。だから切り倒してしまいなさい。」けれども、その人はぶどう園の主人にこう言ったのです。「お願いです。もう一年待ってください。木の周りを掘って肥料をやってみます。そうすれば来年は実をつけるかもしれません。それでもだめなら切り倒してください。」
イエス様のお話はここで終りです。その後、どうなったのでしょうか。実をつけたのでしょうか。それとも実を付けずに切り倒されてしまったのでしょうか。イエス様は、あなたはどう思いますかと私たちに質問をされているのではないかと思います。そして、もうひとつ、もしあなたがいちじくの木だったらどうですかと質問されているのではないかと思うのです。私たちが実をつけるということはどういうことでしょうか。それは神様のところに帰っていくということです。
例えば、私たちが悪いことをしてしまっとき、約束を破ったり、嘘をついたり、友だちの悪口を言ってしまったり、誰かに意地悪をしてしまったようなとき、私たちの心は神様から離れてしまっています。だから私たちは神様にごめんなさいと言って、神様のところに帰っていかなければならないのです。そのことをイエス様は待っていてくだいます。神様にもう一年待ってくださいと頼んでくださっているということです。それだけではありません。
イエス様のお話では、ぶどう園で働く人は、主人にもう一年待ってくださいと頼んで「それでもだめなら切り倒してください」と言いました。実をつけなければ次の年には切り倒されてしまうということです。けれども、イエス様は私たちのために次の年もその次の年も、何年も何年も「もう一年待ってください」、「後一年待ってください」と頼み続けてくださっているのです。誰一人切り倒されてしまったりせずに、みんなが神様のところに帰ってくることを待っていてくださるということです。だから私たちも神様から心が離れないように、もし離れてしまったら素直にごめんなさいと言って神様のところに帰っていくことができるようにしたいと思います。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□90番 「うたいましょう」
□改訂版126番 「うたいましょう」
イチジクは世界で一番古くからある果物かもしれないことがわかってきました。
挿し木で増えるため、栽培が簡単だそうです。
※許される環境にあるなら、イースター(春)に向けプランターなどに花の種を蒔いたり、挿し木をする。
※(イースターの準備)お花や果物の絵をたくさん描き切り抜く。イースターまでストックしておく(イースターにみんなで飾る)。
□「罪を犯す」とはどんなことをしてしまうことでしょうか。