・弟子召命の記事とガリラヤ伝道の記事の位置づけがマタイ、マルコ福音書とは微妙に違う。
そこには、ルカ固有の世界宣教への構想というか、図式がある。
・顕現節の日数が年によって違うのは、ひとえに復活祭の日による。
今日は「顕現節」の第4主日です。この「顕現節」というキリスト教会の暦の期節はいつまで続き、その間、主日は何回あるでしょうか? そんなこと、考えてみたこと、あるかな? この機会に、調べて、考えてみてはいかがでしょうか。顕現節の長さ、主日の回数は年によって違います。それはどうしてでしょうか?
さて、イエス様は、おとなになって、洗礼を受けてから、キリスト、救い主としての働きを始めたのですが、その最初に、悪魔の誘惑を受けました。それから、ガリラヤ地方での伝道の開始です。そのガリラヤ地方で拠点とした町が、カファルナウムでした。その町で、イエス様は汚れた霊に取りつかれた男を癒されたり、多くの病人をいやされました。
そんなイエス様のことは、評判になり、名声も人気も高まったことでしょう。それで、ますます忙しくなり、群衆が押し寄せて来るからでしょうか、今日は、イエス様が漁師を弟子にしたということが報告されていました。その漁師の名前はシモン。シモン・ペトロです。
でも、シモンさんに会って、いきなり、イエス様は「わたしについて来なさい」と言ったわけではないのです。まずは、シモンの持ち舟を借りて、岸から少し漕ぎ出させたのです。群衆がイエス様の周りに押し寄せていたからです。イエス様は、舟の上から話をされたのです。群衆に話し終えた後、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われたのです。シモンは、「先生」と言って、イエス様のお言葉に従いました。すると何と大漁でした。舟が沈みそうになるほどの大漁の恵みを目の当たりにしたシモンは、イエス様の足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ったのです。神様のお恵みを目の当たりにしたシモンは、イエス様のことを、もはや「先生」とは呼ばず、「主よ」と呼んで、ひれ伏しました。「ひれ伏す」とは「礼拝する」ということです。
神様の恵みを目の当たりにする時、わたしたちも、シモンのように礼拝する者となります。それは、自分が罪深い者であることを知ることです。ルーテル教会の礼拝では、最初に、「キリエ」を唱えます。イエス様は、「主」なるお方です。それは、最も大切なお方という意味であり、このお方さえいてくだされば、大丈夫ということです。うれしいですね。
このお方の前で、わたしたちは安心して罪深い自分を認めることができます。そこには、恵みがあり、赦しがあるからです。シモンをイエス様は罰したりはなさいません。それどころか、「恐れることはない。今から後、あなたは人間を取る漁師になる」と言われたのです。神様に愛されている罪人であるシモンは、今や、新しい使命、役割が与えられたのです。わたしたちもそうです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□67番 「ペテロは」
□改訂版53番 「ペトロは」
リーダーがイエスさま役。みんなは弟子になる。
さんびか(たとえばこどもさんびか53)を歌いながら部屋を歩き回り、突然リーダーが「(例えば)本箱!」と言うとみんなで本箱にタッチしにいく。
リーダー(イエスさま)の言う通りにすばやく?!従って行動しましょう。
※「イエスさまが言いました」という他のゲームでもよい。「イエスさまが言いました。○○してください」と言われた時はその動きをする。「イエスさまがいいました」と言わなかった時は動いてはいけない。
・ 「罪深い人」ってどんな人?
・ ペトロさんは何故恐がったんだろう?
みんながイエスさまから同じように言われたら、みんなどうする?
・ 「人間をとる漁師」って実際にはどんな仕事だろう?