・ 預言者のエリヤ、エリシャに共通しているのは、神の恵みを異邦人に伝えた、ということ
・ ルカは、この物語をガリラヤ伝道の冒頭におく。ガリラヤ伝道をすでに包括的に述べ(14~15節)、
カファルナウムでの伝道も前提にしていながら(23節)、である。世界宣教を射程にいれているのである。
・顕現節のテーマは、世界の救い主としてのイエス様ということであるが、そのテーマが浮き彫りにされているペリコーペとして重要。
今日は「顕現節」の第3主日です。先週もお話ししましたが、イエス様は、大人になってから洗礼をお受けになりました。イエス様にとっての洗礼は、キリスト、救い主としての働きを公に開始することでもありました。
では、洗礼をお受けになられたイエス様は、キリスト、救い主として最初に何をしたかとい
うと、悪魔の誘惑を受けられたのです。そのことについて、今日は詳しく触れませんが、悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまで、イエス様から離れました。「時が来るまで」ですから、結着がついたわけではありません。悪魔はまたやって来ます。
それはさておき、荒れ野で悪魔から誘惑を受けたその後、イエス様はどうしたかというと、「お育ちになった」、故郷のガリラヤのナザレに来られたのです。そして、「いつものとおり安息日に会堂に」入られたのです。イエス様は、安息日になると、「会堂」に行って、礼拝しておられたのですね。私たちがこうして、日曜日になると、教会に来て礼拝するのと同じですね。
イエス様は、会堂に入ってから、聖書を朗読されるために立ち上がりました。そして、『イザヤ書』のある箇所を朗読されました。立って、聖書を朗読する習慣も、今日の教会の礼拝に引き継がれていますね。
朗読を終えて、席に座られたイエス様ですが、どうしたわけか、座った後も、会堂に集まったすべての人の目がイエス様に注がれていました。注目されていたのですね。そこで、イエス様は、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」と言って、話し始められました。朗読された『イザヤ書』の中には、「主がわたしに油を注がれた」とありました。
「油を注がれた者」、これが「キリスト」の本来の意味です。つまり、イエス様は、ここで、「主なる神様、父なる神様が、子であるわたしイエスを、キリスト、救い主とした」と宣言されたのです。このイエス様の宣言には、みんなは驚き、さまざまな反応がありました。
それはともかく、キリスト、救い主は、貧しい人や抑圧され、囚われて、自由にされていない、すべての人に解放を告げ、希望を与えるところの、神様のしもべ、使者として登場したのです。さらに、イエス様は、救いと解放は、今、わたしがここにいることによって実現したと言っているのです。イエス様が共にいてくださること、クリスマスに祝った「インマヌエル」こそ、解放であり、救いなのです。これこそ、わたしたちにとっての決定的なことなのです。
結局、ナザレの会堂にいた人々はみな憤慨して、イエス様を崖から突き落とそうとまでしました。なぜ、そんなに憤慨したのでしょうか。すべての人に神様の恵みが与えられるということが、ナザレの人々にはゆるせなかったのです。イエス様はすべての人、わたしの救い主です。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□47番 「せいしょはかみのことば」
□改訂版6番 「イェスさまのことばが」
チームに分かれてやってもよい。
聖書のみことばをいくつか選んで紙に書き、折りたたんでおく。
(※よく耳にするみことばではない箇所や覚えにくい箇所などみことば選びも工夫してください)
最初の人はみことばの紙を1枚選びとり、それを覚える。紙はリーダーに返す。
覚えたら次の人の耳元へ小さな声で伝える。
順にひとりづつ聞いたことばを覚えて次の人へ伝えていく。
最後の人はみんなに伝わったみことばをそのまま発表する。
まちがいなく伝わったかな?
先週作ったユールヤータの中に大好きなみことばを書いてお友だちやお家の人にプレゼントをしよう。
みことばカードを色画用紙に貼って裏にメッセージを書いてもいい。
・ (会堂があいていたら)みんなで聖書朗読台で聖書を読んでみよう!どんな気分だった?
・ みんなが救われるのと、自分だけが救われるのと、どっちが良い?
お腹の減った10人の人が1枚のクッキーをどう分けたらみんなが救われるだろうか?
お腹の減った人の気持ちになって、また、分ける人の気持ちになって考えてみよう。