・イエス様が教えておられる「互いに平和に過ごす」には、自分の中に塩を持つことだと言われる。この塩とは一体何か。火によって塩味をつけられるとは、小さい一人を躓かせることを激しく怒る神様の怒りを意味している。自分たちの罪を自己吟味する時、互いに重荷を負うことができる。
・自分はどうなのかと考え、自分の罪もイエス様の十字架によって許されている。ここから出発して考えるとよい。
・石臼は、「ろばの臼」で、2枚の意思の内、ロバが回転させる上の部分。かなりの大きさがある。
・「地獄の消えない火」はゲヘナと呼ばれ、エルサレムの南にある地名。最後の審判の後で始まる火炎地獄の場所になると言われている。
「塩で平和になるよ」
こんな話があります。ある村に年をとった先生がおられました。村人に愛されていたこの先生のもとに、村一番の悪戯っ子がつれてこられました。その子は大人の手には負えない。喧嘩、盗み、暴力と村の人々は手をやかされていたのでした。村人はみんなで相談しました。「あの偉い先生に説教していただき、諭していただこう」と。
さて、やっとの思いで悪戯っ子を捕まえ、先生のもとに連れてこられました。先生と面と向かって座った子は、先生をにらみつけ暴言をはいていました。しかし、その先生は何も言われませんでした。一時間ばかりたったころ、先生はポロポロと涙を流されました。
悪戯っ子は「このクソじじい、なんで泣いてやがる」と捨てぜりふを残して外へ飛び出していきました。ところがそれからというもの、彼はおとなしい、優しい少年に変わったのです。
後日、先生に村人が聞きました。「どうして何も言われず、ただ涙を流されたのですか」。すると、先生は答えました。「始めは私も説教するつもりだった。しかし、声を出そうとしたとき、『おまえはどうなのだ』『おまえの生き方はどうなのだ』という声がした。自分の人生を振り返ったとき、前にいる悪戯っ子と自分が重なったのだ。そして私も同じだと思うと、いとしくて涙が自然と流れてきたのだ。だから説教することができなかった」と。
みなさん、自分自身の内に塩を持つってどういうことでしょうね。イエス様の十字架を自分も背負うということです。ちょっと難しいですね。私たちもイエス様に十字架で、自分たちの悪い心を赦してもっていると信じることです。みんなが自分の悪いところを知って、同じ十字架で許していただいていると信じること。それが互いに平和にすごすコツです。自分は自分はと前にでず、自分の重荷(十字架)をみること、悔い改めることがイエス様へと導くのです。イエス様の十字架を知っていれば「つまずかせる」ものにならず、「罪を犯させる」ものにならず、平和のうちに過ごすことができる。イエス様の十字架を中心におき、互いに罪を負いあうことを「塩を持つこと」といいます。塩はよいもの。私たちの中にある重荷はよいものです。それによって多くの人々をつまずかせることなく、平和を保つことができるのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□36番 「しゅイエスのみちを」
□改訂版120番 「主イェスの道を」
距離を決め、1グループ・2~3人くらいになり、ケンケンで競争する。ゴールした人は下の聖句を暗唱する。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」
□あなたの味方や応援団、お友達はだれでしょう。名前をあげてみましょう。
□その人たちの中でイエス様のことや教会のことをお話しできる人はだれでしょう。