・イエス様は神と人との関係を再構築するだけではなく、人と人との関係も再構築してくださることを知る。
・身近なことから、聖書の中で描かれる物語を自分のものとしてとらえる工夫をする。
・イエス様が日常的に使っていたのはアラム語という言語であるが、新約聖書は地中海世界の共通語であったギリシア語で書かれている。「エッファタ」はアラム語。
・この出来事は後に教会の中で儀式化され、洗礼式の前のエッファタ式というものが誕生した。
この中で耳の聞こえない人はいますか?いたら手を挙げてください。それでは、この中に舌の回らない人はいますか?いたら返事をしてください。…そうですね、先生のこの質問はとってもおかしいですね。だって聞こえない人に声をかけても、その人は先生が何と言っているかわからないですし、上手に話すことの出来ない人に返事をしてもらうようにお願いをしても上手に返事ができません。
ではここで、○○くんに耳が聞こえず、舌の回らない人の役になってもらいます(○○くんに立ってもらいます)。耳がきこえず上手に話せないということは、人が何を言っているかわからないし、そのことを他の人に上手に言えないということです。これは私たちが全く同じではないですが外国に行ったときと似ています。私たちが外国に行くと、まわりの人が何を言っているかわかりませんね、また、自分の言葉もまわりのひとに通じないですよね。
では、○○くんはあっちに行ってもらいます。その間にあらかじめ先生が○○くんに聞く質問を他の人に教えておきますね(質問は○○くんが理解できない外国語で)。
では○○くんに戻ってきてもらいましょう。○○くん、ここは外国です、日本人は○○くんだけです、「(英語で)先生は君を見て杉ちゃんに似てると思ってたんだけど、君自身はどう思う?ワイルドか~い?」…
はい、終了。では○○くん、わからない言葉で質問されてどう思った?みんなの反応をみてどうだった?実は先生も○○くんと同じような経験をしたことがあります。何をいってるかもわからないし、こっちが何をいっても通じないし、先生はそのときとても淋しい気がしました。自分は一人ぼっちで、みんな自分のことを悪く言ってるんじゃないかとか、色んなことを考えてしまいました。
この耳が聞こえない、舌が回らない人も同じような気持ちであったんじゃないかと思います。いや、きっともっと淋しい思いを、悲しい思いをしていたんじゃないかと思います。そんな彼がイエス様のところにつれてこられました。そして耳が開け、口が聞こえるようになりました。
この人はイエス様とであうことによって、まわりの人たちとの関係が生まれたんです。イエス様は一人ぼっちのわたしたちのところに来て、他の人との関係をつくってくださいます。そう、それにはまわりの人たちの協力も必要でしたね。みなさんももし、まわりに一人ぼっちの人がいたら、どうかイエス様のところに連れてきてください、そしてもみなさんももし一人ぼっちになったとしたら、きっとみなさんの周りの人が、みなさんをイエス様のところに連れてきてくれます、いや、今がそのときかもしれませんね。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□103番 「どんなにちいさい」
□改訂版58番 「どんなに小さい小鳥でも」
~高学年~
こどもは一人ひとり聖書を手にしてスタンバイ。
聖句とその聖書個所を書いたカードを数枚用意し、裏返しにして置いておく。
先生が「エッファタ(開け)!」と言いながらカードを開き、こどもたちは出た聖句の個所を探します。速く聖書を開けるかな?
~中学年~
動作にまどわされないように、よく言葉を聞くゲーム。
例)先生は「エッファタ、手!」と言いながら足を開く。先生の動作につられないで手を開きポーズしましょう。
初めの何回かは言葉と動作を合わせ、その後変えていった方が、どのこどもにもわかりやすいと思います。
~低学年~
体の一部(目、口、手など「開く」ことができる部分)を描いたカードを作り、やはり裏返して置いておく。先生はカードをめくりながらの「エッファタ」と言い、それに、合わせて絵と同じ体の一部(目、口、手など)をひらいてポーズ!
カードをめくるのをこどもたちが順番にするのも良いと思います。
・自分が一人ぼっちだと思うときってどんなとき?それはどうやって解消される?
・イエス様役の人を決めて、その人が二人の手を取って握手をさせる。二人はどんな気持ちになる?これがもし好きな人どうしだったら?嫌いな人どうしだったら?