・見た目や関係性にとらわれずに「(神様の目から見て)良い」ものを素直に「良い」と言える心を持つ。
・故郷の人々はイエスの兄弟を知っていたが、自分たちと同じただの人間にすぎないととらえ、神の子として受け入れなかった。
・イエスさまの教えやみ業の源に目を向ける。
・これまでイエスさまの活動の中心はガリラヤ湖周辺であった。この箇所は故郷ナザレに戻った場面である。直前の箇所は「信仰」が強調され、この位置では「不信仰」が強調されている。
・イエスさまに対する家族の無理解はマルコ3章20節以下に記されている。
・2節「イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った」の「驚く」は、特にイエスの振舞いや教えや奇蹟が引き起こす驚きを表している。
みなさんに兄弟はいますか?年の近いいとこでもいいですよ、昔一緒にあそんだことがあるとか、もちろん今でも一緒に遊んでいる親戚でもいいですよ。そう、みなさん大体一人か二人はいますね。
では20年後、もし自分の兄弟や親戚が総理大臣になってたらどうでしょう?ちょっとうらやましいなぁとか、あいつに本当にできるのかなぁ?とか思ったりしませんか?
私たちの中には、自分が知っている人が偉くなったり、お金持ちになったり、立派になったりすると、半分は嬉しいのですが、半分はうらやましい気持ちになる人がいます。
もしかすると、イエス様の親戚の人たちもそうだったかもしれません。イエス様の時代は特に、大工の子が聖書の先生になることなんてできませんでした。だからイエス様が立派になって、すばらしい聖書のお話をする姿を見て、嬉しくなる気持ちと、うらやましくなる気持ちが入り混じって、あんまり歓迎する雰囲気にならなかったのかもしれません。
少し視点を変えてみると、もしみなさんが普段ばかにしているお友達がいたとして、そのお友達が、自分ができなかった問題に正解したり、自分も思っていたけど言えなかった正しい意見を言ったとしたら、どうですか?そのお友達の正解や正しい意見を素直に喜べるでしょうか?何で自分ができなかったのに、あいつは出来たんだ!自分も言おうと思っていたのに…、なんて気持ちにならないでしょうか?
もしみなさんのそんな姿をイエス様が見ると、イエス様はきっと「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われるでしょう。そうなんです、イエス様は、その人が誰であれ、それが正しい行為であり、正しい発言であったなら、その行為や発言を素直に受け止め、そして喜びなさいと言っているのです。神様の目から見て「良し」とされる行為や言葉は、「良いもの」としてそれらを受け入れなさいとおっしゃっているのです。
みなさんもどうか、その人の外見や、また普段の自分との関係にとらわれずに、「良い」ものを「良い」といえる心を持ってください。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□60番 「かみよわたしの」
□改訂版32番 「すべての人よ」
(雨や曇りの時は、暗い部屋と明るい部屋でくらべてみる)
<用意するもの>
・黒い画用紙・セロファン(赤・黄などの明るい色)
①黒い画用紙を二つ折りにする(図1)のようにハート形や十字架の形になるように線を書き、それを切り抜く。
②切り抜いた所にセロファンを貼る(図2)。
③光のある所で白い壁などにこのセロファンの部分の影を写してみよう。
*暗い所(日影)では、どんな風に写るかな?光のある所に立つと影はあざやかに色の影が見え、暗い所に立つとあまり色が見えない事に気づく。
□私達も神様の光の中に立っていると喜びがある。日曜日礼拝するという事もそうかもしれない。教会に来ていて神様から力をもらっていると感じる事があるかな?
□イエスさまが故郷を離れて旅をなさった所を地図で見てみよう。ヨルダン川、ガリラヤ湖、ベトサイダ、ティルス、シドン、フィリポカイサリア、カファルナウムetc