・イエス様の働きが内輪もめではなく、真に必要な厳しい戦いであることを覚えたい。
・群衆を一生懸命助けるイエス様と理解できない親族の思いに心を向けたい。
・三つの内容に分けられる。
1、群集への奉仕に忙しいイエス一行と無理解な身内(20-21)
2、エルサレムの律法学者たちのイエスへの最終評価「サタンの力」(22)
3、律法学者へのイエスの教え(23-30)(サタンの内部分争はありえない(23-26)、悪霊追放のやり方(27)、聖霊をけがす者への永遠のさばき(28-30))
・イエス様を連れ帰りに来た家族の判断は、この後に出てくる郷里の人々のイエス様に対する不信仰と対応している。
・気が変になる-本来あるべき場所から外れる、正気を失うという意味。
・ベルゼブル-バアル・ゼブブ(列王紀下1章)「気高き主」あるいは「高き館の主」という意味の名で呼ばれていた。これはおそらく嵐と慈雨の神バアルの尊称の一つだったと思われる。つまり、イエス様を神の子ではなく、異教の悪魔の頭と呼んだのである。
ヘレン・ケラーさんを知っているでしょうか?二歳ぐらいの時に、大きな病気(熱病)にかかって、目が見えなくなり、耳が聞こえなくなり、話すこともできなくなった女の人です。お父さんもお母さんもどうしたらよいか分からなかったですが、家庭教師としてやって来たサリバン先生のお陰で、文字が分かるようになりました。一番有名なのは、サリバン先生がヘレン・ケラーの手に冷たい水をかけて、もう片方の手に指で「W-A-T-E-R」と書いたという話です。そこからヘレン・ケラーは少しずつ学ぶことの面白さを見つけ、頑張って勉強して、大学を卒業しました。さらに、自分と同じように障がいに苦しむ人たちのために、いろんな手助けをしたのです。
話すことのできない人の言いたいことを理解できるというのはすごいことだと思いませんか。もしかしたらテレパシーを使えるの?と思ったりしませんか?
イエス様の時代にも話すことができない人や仕事ができない人、動けない人などがたくさんおられました。イエス様はそのお一人お一人の共となられ、お一人お一人を助けて過ごしました。その中にはヘレン・ケラーのように話すことができない人もいたでしょう。誰もその人の言いたいことを理解できるとは思わずに、何もしていなかったでしょう。でも、イエス様は根気強く、色々な方法でその人の言うことを理解されたのだと思います。でも、周りにいる人にとってはそれは不思議なことに見えたでしょう。どうしてそんなことができるか分かりませんでした。テレパシー?と不思議に思うよりもきっと悪魔の力で分かったに違いないと言ったりしました。イエス様は神さまの子なのに、悪魔のリーダーなんて言うとは失礼だと思いませんか?けれども、わたしたちも自分で理解できないこと、不思議に思うようなことがあると、何か悪いもののせいにしたりすることがあります。本当は自分がポケットから落としたのに誰かが盗んだと思ったりすることはないでしょうか。後から出て来て反省したことはないでしょうか。悪いように考えたり、弱い気持ちになったり、すばらしい働きを悪魔の力だと思ったりするのはわたしたちの心の中に弱い部分があり、誘惑に負けるからです。誘惑はどこからもやってきます。
その誘惑と戦ってくださるために、イエス様は来てくださいました。あなたの心の中で一番強いもの、誘惑の心に対抗するためにわたしは来たのだとイエス様は言われているのでしょう。イエス様のすばらしい働きが決して悪魔の力ではなく、神さまの力、そこにいる人を愛して大切にする中で生まれてくる力だと覚えましょう。わたしたちの中にある弱い心を縛り上げて、神さまの強い心にしてくださるイエス様と共に歩いて行きましょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□7番 「かみはうちゅうのつくりぬし」
□改訂版94番 「ふしぎなかぜが」
<準備するもの>紙テープ
①じゃんけんで1番勝った人が、聖霊です。
②他の人は悪霊です。適当に切った紙テープをズボンやスカートに挟み、逃げます。
③聖霊にしっぽを取られたら、聖霊に変わり、最初の聖霊の人と協力して悪霊を追いかけます。(どんどん聖霊が増えていきます。)
④全員が聖霊になったら、手をつなぎ輪になって、声をそろえ「ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!」3回言いながらバンザイします。
※走り回るスペースがない場合は、「震源地はだれだ」のゲームの要領で、「悪霊はだれだ?」と題して、鬼(聖霊)が悪霊を当てたら、みんなで「ハレルヤ!~」を3回。というのも楽しいですね。
□神さまの力とそうではない力、どうやって見分けることができるでしょうか。
□人間の心の中には弱さがあります。弱さに勝つのは自分の努力の力でしょうか?