・キリストの愛に留まって生きる
・弟子たちにわかり易い様、父なる神が農夫として葡萄の木を手入れされると譬える。
・常にイエスはつながっている事を強調されている。弟子たちに不安
・恐れが蔓延し始めているが、キリストの愛につながっている事によって、互いの存在が成立する。
・キリストと弟子たち(私たち)を結び付けているのは、父なる神がひとり子を愛されたのと同じように、キリストが弟子たちを愛することによってである。愛によって強く結び付けられている。
・ここでのイエスの説教は、14章の説教と併せて「訣別説教」として、二重に設定している。昇天から再臨の時までイエスが不在になるため、地上に残された弟子たちには不安が残っている。
・15章はイエスの死が近づいているのと同時に弟子たちの迫害の時が迫っている切迫感がある。
・葡萄の木は、根から地上に出ている部分を見ると大変細い。このような細い幹から大きく枝を伸ばし、多くの実を結ぶ。見た目は大変細く弱々しく見えるが、見た目とは裏腹に実を結ぶことを考えるのも良い。
ヨハネ福音書でイエス様がぶどうの木を譬えに話されたのは、最後の晩餐の席だったと書いてあります。最後の晩餐と言う言葉を聞いたことがあると思いますが、イエス様が十字架に架けられる日の前夜、弟子たちと食事をした時のことを言います。
イエス様が人として弟子たちと過ごす最後の夜、大切なことをいくつか話してくださいました。その一つが「ぶどうの木」の譬話です。皆さんはぶどうの木というのを見たことがありますか?(一人一人に確かめるとよい。)ぶどうの木は地面から細い幹が伸びて、細い枝が広がって、一つ一つの房を作って、その房に実がたくさん付きますね。
細い枝なのに多くの実を結ぶことが出来る。見ただけでもビックリすることですが、ぶどうの房は一つの木にいくつもできます。それは一つの房の実にも細~い枝がつながっているからなんですね。栄養を運んでくれる幹につながっているから、ぶどうの木には沢山の実ができます。
今日の聖書では、実を結ばない枝は神様が取り除かれるといっていますが、皆さんは不安になっていませんか?神様とつながっているかどうか判らない・確かめられないと考えませんか?わたしたちは、神様につながっている事が出来ているのかなぁと、不安になることがあります。でも、イエス様は「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と言われました。これは、「神様の手入れによって実を結ぶ者になっていますよ、わたしの言葉を聞くことで豊かに実を結ぶものへと成長しますよ」と、教えてくださっています。
私たちはイエス様の教えを聞いて「一度聞いたから、もういいや」と、別行動しそうになることがあります。でも、よく考えてみてください。皆さんの周りに、携帯電話やPSP,DS(携帯ゲーム類)、ノートパソコンなどがありますね。何処でも使えるし、電源コードがないから好きな場所に移動できますね。でも、ずっと使っていると電池の残量がなくなって動かなくなりますね。いつも充電しておかないと、遊びたい時に遊べなくなってしまいますね。
イエス様の言葉も聖書が語る神様の言葉も、一度聞いたから大丈夫と思っていると、気がついて必要だとおもう時に無くなっている事があります。だからこそ、いつもイエス様につながって、神様の愛に守られている事を忘れないよう、イエス様が共におられることを見失わないようにつながっていきましょう。いつでも神様の愛、イエス様の愛を他の人に伝えられるように準備をしていましょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□73番 「しゅイエスはまことのぶどうのき」
□改訂版60番 「主イェスはまことのぶどうの木」
折り紙の茶色と紫を6等分に細く切ります。
最初に茶色を輪つなぎして、ぶどうの枝を作ります。
その後、枝の好きなところから紫色で輪つなぎの要領でぶどうの実を作っていきます。
みんな神様に繋がっているブドウの実が出来上がります。
・人と人が「つながっている」と感じるのはどんなとき(場所、相手、状況)?
・その「つながり」が「切れた」と思うのはどんなとき?
・「つながる」ために何か努力していることある?
・人と人との「つながり」とイエスさまと私たちとの「つながり」って同じ?違う?どう違う?