・三度イエス様を知らないと否定したペテロを赦すイエス様の愛を受けとめたい。
・キリストの弟子の歩みはただ自分が歩む道ではなく、羊飼いが羊を飼うように人々を導くことが使命である。
・イエス様はキリストの弟子として立つ上で最も根本的なことをペトロに確認したのです。それは、キリストへの愛です。
・一連のできごとで、自分の弱さを知らされたペトロは、自分の存在のすべてを知っているキリストに、自分をゆだねたのです。
・愛するか:イエス様の問いかけははじめの二回「アガペー」(神の愛)の愛で尋ねる。それに対してペトロは「フィリア」(友愛、親しい者への愛)の愛で答えている。三度目にイエス様はペトロに対して「フィリア」の愛で尋ねる。それはイエス様の側からの近寄りです。
・イエス様は、ペトロがこれからの生涯、キリストを愛しつづけ、従いつづけ、死に至るまで、キリストの素晴らしさを現し、生涯を全うすると告げられたのです。
イエス様の一番弟子はシモン・ペトロという人でした。シモン・ペトロはイエス様が十字架にかかられる前にその様子を覗いている時、「お前、イエスの弟子だろう」と周りの人に言われました。恐ろしくなってついつい三度も「そんな人知らないよ」と言ってしまいました。言った後、どうしてあんなことを言ってしまったのだろうか…と後悔していました。イエス様が復活されてからもずっと心苦しい、申し訳ない思いでした。そんなシモン・ペトロにイエス様は「シモン・ペトロ、誰よりもわたしを愛しているか」と尋ねられました。ペトロさんは自信をもって「愛しています」と答えました。でも、イエス様は微笑みながら、二度、三度と同じ質問をします。「わたしを愛しているか」と。堪えながら、十字架にかかられる前の自分の姿を思い出したので、ペトロは悲しくなりました。でも、それはイエス様がペトロさんをいじめたのではなく、時にはイエス様を裏切ってしまうわたしたちの愛を受けとめて、イエス様はわたしたちを愛してくださるということなのです。
そして、その次にイエス様が言われるのは、「わたしの羊を飼いなさい」、「わたしの羊を世話しなさい」ということです。これは一言で言い表すならば、伝道しなさい、神さまのみことば、キリストの生涯を宣べ伝えて、人々をキリスト者にしなさいということです。これまであなたたちはわたしに養われてきたけれども、これからはあなたが羊飼いとして、羊を世話しなさいといわれるのです。でも、羊を飼うということは餌をあげるだけではありません。世話をするとは成長させる、導くという役目も担っています。羊飼いはいつも羊の先頭に立っているだけではなく、自分の任された羊一頭一頭を覚え、群れの前にいたり、時には真ん中に来て様子を見たり、時には一番後ろから見守り、追い立てるような方法で励ましたりします。怖い敵が来たら戦わないといけません。ですから、「羊を世話しなさい」とはあなたは世界中のすべての人がキリスト者として生きていけるよう、その人と共に歩み、共に成長していきなさいということ、常に真剣に相手のことを考えて、共に歩みなさいということなのです。特別な生き方ではありませんが、主イエス・キリストが生涯をかけながら私たちに教えてくださった生き方であって、相手のために命を捨てるほどの生き方、神の愛を実践していく生き方をしなさいと言われるのです。神さまの愛を実践していくこと、「わたしの羊の世話をする」という、羊を成長させる役目をキリスト者は常に担っているのだということが語られているのです。
「わたしの羊を飼いなさい」それはイエス様から私たちに伝えられる最後の使命です。イエス様がわたしたちの羊飼いとなってくださったように、わたしたちも多くの方の羊飼いになれるように成長していきましょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□36番 「しゅイエスのみちを」
□改訂版120番 「主イェスの道を」
1)羊の絵に色を塗り、しおりにする。
2)自分が今までにした失敗を思い出そう。
たぶんヨハネ・シモンは同じ気持ちだったはず。
でもイエス様は許してくださることを覚えよう。
・ゆるされたこと(「ゆるす」って言われたこと)ある?そもそも何をした?そしてどうしてゆるしてもらえた?
・ペトロはどうしてゆるされた?そもそも何をした?
・ゆるしたこと(「ゆるす」って言ったこと)ある?そもそも何をされた?そしてどうしてゆるした?
・ゆるしていないこと、ゆるされていないこと(「ゆるす」と言えない、言ってもらえていない)ある?そもそも何をした(された)?どうしてゆるされていない(ゆるしていない)?