①「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えよ」と言われる宣教の大号令を心に留め、それをスタートとしたい。
②「信じて洗礼を受ける者は、救われます」はある意味では宣教のゴールが洗礼へ導くことであることを示し、洗礼を受けた人の歩みはそこからはじまることを教えられる。
・天に昇られる前のイエス様から語られた言葉はある意味ではバトンタッチです。神さまの信頼を受けて歩んでいくこと、はっきりとした使命があることを覚えたいと思います。
・マルコによる福音書は「イエス・キリストの福音のはじめ」と言う書き出しで始まりました。今、十字架を通して福音は完成しました。そこにはイエス様の言葉や生き方すべてが入っています。それをわたしたちは伝えます。
・同じ宣教の大号令でもマタイ28章の「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と違っている。マルコでは「行きなさい」という言葉、全世界にということが強調されています。
・しるしは漢字では「験」と書く。神さまが現してくださるわざであり、わたしたちから直接力が出る、出せるということではなく、わたしたちを通して神さまの力が働くこと。
イースターを迎えて、私たちは復活されたイエス様と共に歩む時を過ごします。イエス様と人々の出会いは大切なことを教えてくれます。復活されたイエス様はまずマグダラのマリアに、そして、続いて二人の弟子に現れられます。彼女はイエス様の墓を覗き込んでいました。マリアは慕っていたイエス様の死によって悲しみにふさぎ込みそうになってしまっていたのです。悲しい人を放っておられないので、イエス様はマリアのところに現れたのです。後ろからイエス様は声をかけられます。振り返ってそこにイエス様を見つけてマリアはもう後ろを向くことなく、前向きに歩き出しました。私たちが本当に必要としているときに声をかけてくださるのが、復活のイエス様なのです。
そして、二人の弟子に現れる出来事で不思議なのはなぜイエス様は別の姿で現れられたかということです。それは受けとめる者の心が閉ざされている時にそのように見える、イエス様が近づいて共にいてくださってもイエス様だと分からないということを教えてくれているのです。主を主として受けとめられない時、喜びを喜びとして受けとめられないほど心が閉ざされている時がある。でも、それをうち破るためにイエス様は現れ、共にいてくださるのです。そして、別の姿のもう一つの意味を私たちは忘れてはいけないのです。イエス様は今日でもとなり人の姿として私たちに現れてくださっているということです。復活されたイエス様が別の姿で現れたのは私たちがとなり人にキリストの姿を感じ、見ることの先取りなのです。わたしの姿を通して、キリスト者はイエス様を見るのです。私たちはとなり人を通して、イエス様に仕えるだけではなく、自分を通してとなり人がイエス様に仕えるためにも生きているのです。
イエス様は三度目には弟子たちに自ら現れ、不信仰とかたくなな心をとがめられて、信じることを伝え、そして「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と言われます。宣教の大号令です。福音を宣べ伝えることは特別なことではありません。あなたの助けを必要としている人に手を差し伸べて共に生きていくこと、共に歩む者にキリストの姿を見ながら生きていくことが福音を宣べ伝えていくことなのです。「自分を愛するように、隣人を愛せよ」とイエス様が残された最も大切な教えを実践していくことが福音を宣べ伝えていくことです。イエス様ならどうやって生きるかを考えながら歩んでいきましょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□40番 「よあけのほしが」
□改訂版86番 「夜明けの星が」
1)イエスさまがよみがえったことをきいたお弟子さんたちは、どう思ったでしょう。
2)イエスさまが現れた時、お弟子さんたちが感じたことを考えてみましょう。
3)派遣されたお弟子さんたち11人の名前をおぼえましょう。
*シモン・ペトロ
*ヤコブ
*ヨハネ
*アンデレ
*フィリポ
*バルトロマイ
*マタイ
*トマス
*アルファイの子ヤコブ
*タダイ
*シモン
・イエス様の命令って簡単?難しい?どうやって実行してる?
洗礼を受けた教会の人たちに聞いてみよう!
・「すべての造られたもの」とは人間だけではなく、神さまが造られた被造物を指しますが、人間以外の被造物に「福音を宣べ伝え」るとはどういうことでしょうか?