①十戒の第2戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」の理解を深める。
②言葉の使い方、人との向き合い方から「誠実さ」ということについて学ぶ。
・当時は「誓う」という行為に関して、誠実さがおろそかにされ、「誓ったが守れない」あるいは「誓ったが守らない」という「偽りの誓い」が横行する状況にあった。
・「然り」は「はい」、「否」は「いいえ」と同じ意味である。2回繰り返すことによって、強調の意味を込めている。
・「誓う」という行為を「約束」として理解してみる。
・人に対して誠実であることと、神に対して誠実であることとが、不可分であることを示す。
・当時の律法学者の間では、誓いの拘束力について論議されていて、神の名にかけて誓われたものは絶対に守るべきものとし、神の名にかけてでないものはその限りではないものとされていた。
・「天」「地」「エルサレム」「頭」などを指して誓うことによって、その誓いの拘束力はなくなり、破られてもよい類のものになると判断された。
・イエス様は、「天」と言おうと「地」と言おうと「エルサレム」と言おうと、それらはすべて神に関わるものであるから、律法学者たちのそのような解釈は詭弁だと退けたのである。
神様はその昔、「十戒」という「10の掟」を与えました。その中の一つに、「神様のことを、軽々しく言葉にして使ってはいけません。神様のことを口にする時には、誠実に話すようにしなさい。」という意味のものがあります。「誠実に話す」という意味は、真剣に、正直に、本気で話す、ということです。それなのに、イエス様の時代には、あんまり真剣じゃなく、正直でもなく、本気でもなく、「神様の名にかけて誓う」ということが行われていたのだそうです。これはいけないことですね。
ところでみんなは、「誓う」ってどういうことか分かるかな?「誓う」という言葉は、「私は必ず○○することを誓います」という風に使われます。つまり、「必ずやると約束する」場合に使われる言葉ですね。みんなも、「僕は必ず5時から宿題やるよ。だから今は遊びに行かせて。」とか、お母さんに言ったりしたことがあるでしょう。そういうことを、とっても真剣に、正直に、とっても本気で、それを言いたい時に、「私は誓います」と言うんですね。
でも、誰か友だちが、真剣にでなくて、正直にでもなく、本気でもないのに、そういう約束の言葉を言っていたとしたら、みんなはどんな気持ちになりますか?きっと「嫌だなあ」って思うよね。本当に大事な約束をしている時に、真剣でなかったり、ふまじめで、正直に言ってくれないことは、不誠実で、いけないことです。けれども、イエス様の時代には、そういうことがよく起こっていたそうです。それももっと悪いことに、当時の人たちは、「神様の名にかけて誓う」とよく言っていたそうです。普通に「誓います」と言うだけでも大変ですが、「神様の名にかけて誓う」と言ってしまったら、もっともっと大変です。それは、「もしも私が約束を破ったら、神様から罰を受けてもいいよ。」と言っているのと同じですね。こういうことを、真剣にでなく、正直にでもなく、ふまじめに言っていたので、つまり、不誠実に言っていたので、イエス様は「そんな風に、軽々しく、神様の名にかけて誓ってはいけないよ。」と仰ったのです。
よくよく考えてみると、私たちは本当の意味では、「誓う」っていうことは出来ないことかもしれません。なぜなら、私たちは人間として限界を必ず持っていて、何でもかんでも自分の思う通りに出来るわけではないからです。「必ず守る」と心に思っていても、私たちは約束を守れないことがあります。だからイエス様は、相手に対して誠実に約束すべき時には、「はい」と「いいえ」だけで話すのが一番よろしいと仰いました。「○○すると約束しますか?」と問われたら、「はい」「いいえ」で答える。軽々しく神様の名にかけて誓うことをせず、また、自分の力の限界を自覚して、へりくだった態度で「はい」「いいえ」で答えることは、約束している相手に対しても、また神様に対しても、誠実な態度だと、そのように言うことができますね。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□51番 「わたしはしゅのこどもです」
□改訂版123番 「わたしは主のこどもです」