①イエス様の宣教開始である。重要なのはその場所である。ガリラヤはイエス様の故郷であるが、同時にユダヤ人からは軽視された場所だった。見捨てられた暗闇の支配する場所、しかし、その中でこそ神の救いの計画が実現し、イエス様と出会える場所になっている。わたしたちにとっても「ガリラヤ」と言える場所があるのであれば、ここでこそ、イエス様は働かれる。
②天の国(神の国)は近づいたという言葉の「近づいた」はまだ来ていないことを示すのではなく、「近づいてもうここに来ている」ということを語っている。ヨハネとイエス様の宣教の違いはイエス様によって神の国は何らかの意味でもう始まっているところにある。
・「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」(12節)。ヨハネが洗礼活動をしていたのはヨルダン川の下流、ユダヤに近い地方だと考えられています。洗礼者ヨハネが捕らえられて、イエスご自身も身の危険を感じたのでしょうか、ヨハネの活動の限界を感じたのでしょうか、イエス様はご自分の故郷とも言えるガリラヤに戻ってきます。そして、これを契機にイエス様独自の活動が始まることになりました。ヨハネの働きを受け継いだのではないのです。
・光が輝くのは暗闇がある場所だけです。暗闇があってこそ、光は輝くことができます。死の陰の地に住む者は死んだ者ではなく、死の淵、死んではいないけど、それに近い人、闇の中にいる人を指します。その人たちの場所にこそ、光は射し込むのです。「命は人間を照らす光であった」と言われるように、今、イエス様は光としての活動を開始されました。
・今日の福音でマタイが引用しているイザヤ8章23節~9章1節は、「主の降誕」の日課でも読まれた旧約聖書の箇所。
・「ゼブルンとナフタリ」は、エジプトを脱出したイスラエルの民が約束の地に入ったとき、ガリラヤ地方を割り当てられた部族の名
児童文学作家の松谷みよ子さんが書かれたモモちゃんとアカネちゃんのシリーズの中に妹のアカネちゃんが産まれる直前の話にこんな物語があります。ママが慌てて階段を下りている時に、足を滑らせて下に滑り落ちてしまうのです。落ちながらママは「大変、ああ、赤ちゃんがあぶない」と考えながら気絶をしてしまいます。その後、ママはなまりいろの雲がたれこめているはらっぱをとぼとぼと歩いていきます。はらっぱは冬で空も野原もなまりいろで冷たい風が吹きすぎていくのです。ママはためいきをつき、重い足どりで歩いていきました。暗いわ、それに寂しいわ、何もかも死に絶えてしまったように、もの音一つしない…赤ちゃんは死んだのかしら。階段から落ちた時、死んだのかしら。そう死んだんだわ。だってこんなに暗いもの。ママはたよりなく立っていました。その時、雲のさけめから一筋の光が、さあっと野原に落ちてきました。するとその光できらっとひかったものがあったのです。ママは「何かしら」とつぶやき、そのそばに近づきました。それはあかね色ののばらの実だったのです。それを見たママの目から涙があふれました。-この小さな実の中に、命があるのですね。だからこんなに、燃えるように赤く、かがやいているのですね。-ママはその実のそばに手をたらしながら立っていました。命があるのですね。命があるのですねとつぶやきながら。ママは命の輝きを見て、涙しました。そして、その二日後にアカネちゃんは産まれたのです。
イエス様はガリラヤというところで、宣教を始められます。どうしてそこで始めたのでしょうか。イエス様の故郷だったのでしょうか。そうではありません。ガリラヤは預言者イザヤが言っているように「暗闇」であり、「死の陰の地」とされていたところです。暗闇とは光が届かない所、死の陰の地とは生きている者が歩む場所ではない所、死者の居るところ、希望のない所のことです。つまり、神さまの救いが訪れないところだとガリラヤは思われていたのです。ガリラヤは救いから外された者たちが集まる所と考えられていたのです。希望から一番遠いところからイエス様はみことばを宣べ伝えます。そして、わたしたちには心のガリラヤがないでしょうか。一人一人の心の中にある「暗闇」や悩み、悲しみ、また神さまのことばを受け入れない思いのことなのでしょう。そこにイエス様は来てくださるのです。ガリラヤから伝道を始められる。それは一人一人にイエス様が来てくださる、イエス様が希望の光が照らされるという力づよいメッセージなのでしょう。
ヨハネによる福音書に「命は人間を照らす光であった」という言葉があります。クリスマスに誕生されたイエス様はわたしたちを照らしてくださる光です。暗くて怖かったり、何も見えないのであれば、ちゃんと光として照らしてくださり、わたしたちを安心させてくださいます。イエス様の命は光そのもの、温かさそのものです。
「天の国(神の国)は近づいた」と最後にイエス様は言われます。それは近づいて来ているということではなく、もうここにあって実現しているという意味です。主の祈りで「み国が来ますように」と祈りますが、イエス様によって神の国はもう始まっているのです。寂しいとき、暗闇にいるように感じる時、イエス様はあなたのそばで光として照らし、暖めてくれています。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□36番 「しゅイエスのみちを」
□改訂120番 「主イェスの道を」
<用意するもの>
細筆
・墨汁
・半紙(半分に切って、細長にして使います。)
・黒画用紙
・新聞紙
・すずり
・ぞうきん
①みなさんは、書き初めをしましたか?新しい1年の目標は、何ですか?
②今日から、イエス様は神さまの事を伝えはじめられました。このはじまりの時、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」という言葉ではじめられましたね。このイエス様の宣教のはじまりの言葉を書き初めしてみましょう。
③書けたら、良く乾かして黒画用紙に貼りましょう。