①自分の生活の場の中で、不義、不正、不公平ではなく、赦すものへと替えられることを祈る
・言うまでもなく不正の勧めではない。例え話の中でイエスが言おうとしていることを考え、説教奉仕に臨みたい。結論は上記載の通り、自身の生活の場で赦すものへと替えられることである。
・そうであっても、子どもたちも聖書を読む中で「不正は良いのか」ということに思いが至るかもしれない。世の中はそういうことで溢れているから。だから結論から云えば良いと思われる。
・「今の世の中はひどい」そんなことを子どもたち自身も感じているかもしれない。ただ覚えたいのは、社会の巨悪に注目する前に、自身の小悪を思い出すこと、すると立つ瀬が無くなるかも。
・6節~7節の、「パトス」「コロス」は何れも単位。数値換算すると更に大きな数字になるので、口語訳聖書では「樽」「石(こく)」と記載。どのように説明するか、それは個々の教会に依る。
・管理人は、自身の裁量で出来ることを行った。それが主人の債権をごまかすということであっても、管理人の裁量で行ったことを主人は褒めた。自身で出来ることを行うものでありたい。
【導入】歩行時の急ぎの際の信号無視も、ゴミの散らかしも、自転車で歩道を走ることも全て、法令違反。その意味で説教者自身には、不正、不義、不道徳の経験はないだろうか。なかなかそれらを告白することは勇気がいることでもあるし、そもそもまだ自身の中に留め置きたい、或いは墓場まで持って行きたいということもあるが、自身の経験を子どもたちに分かち合うことも大切なことと思う。
【初めに】皆さんは、悪いこと、いけないことをしたことがありますか。例えば先生は、道に小さなゴミを落とすこともありますし、横断歩道を赤信号で渡ることもあります。横断歩道が遠くにあって、でも急いでいる時にはその横断歩道まで行かないで道路を渡ってしまうこともあります。それらは本当はいけないことですけれども、でもしてしまうことがあります。皆さんはどうでしょうか。
【聖書】今日の聖書を読んでびっくりする人もいるかもしれません。イエスさまは聖書のお話で、悪いことを勧めているように書いてあるからです。ある人が主人のお財布を預っていました。その人はご主人さまのお財布にあるお金を勝手に無駄遣いしています。自分のお金ならば、無駄遣いしていてもそれは自分のお金なのですからどうのこうの云われることはないのですが、ご主人さまのお金なのです。例えば誰かが自分のお財布を持って行って、そのお金を使ってしまったらどうでしょうか。
【聖書2】悪いことが見つかった人は、ご主人さまから怒られます。もうお金を扱わせることは出来ないと云われ、お金の仕事から外されそうになります。そこでその人は考えました。自分が仕事を無くしても、誰かが自分のことを守ってくれるようにしよう、と。その人はご主人さまにたくさんの借金がある人を尋ねます。そして、たくさんの借金を少しにしてしまうように、ずるをするのです。ご主人さまはびっくりしますが、この人を褒めるのです。自分の出来ることをした、と。
【ずるは駄目だけど】悪いことはいけません。イエスさまはここで悪いことを勧めていることではありません。ご主人がこの人を褒めた理由は、「自分の出来ることを一生懸命に考えて、実行した」ということです。何度も言いますが、悪いことは駄目ですよ。でも、自分の出来ることを考えて、それぞれの場所で、少しでも良いことをすることが出来ればいいなあと、先生は思います。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□49番 「しゅイエスのひつじ」
□47番(改訂版) 「小さい子どもの」
①紙を半分に折り、左側に「もし、1万円あったら何に使うか?」を書いてみます。→1人ずつ発表する。
②聖書(ルカ16:1~9)を読みます。
③お金は、神さまからの預かり物です。不正がばれた召使いは、貧しい人達へ目を向け、友達になろうとしました。
④主人はこの召使を許し、ほめました。
⑤今度は、右側にどんな事をすれば、神さまが喜ばれるかを書いて発表します。
今日は敬老の日です。自分のおじいちゃん、おばあちゃん、又、教会のおじいちゃん、おばあちゃんにお手紙を書いてみましょう。