・欲望には限りがなく、それが完全に満たされることはありません。しかも、貪欲さは自分自身だけに集中させ、神様や他者に対する意識さえも失わせてしまう危険があります。
・自分の幸福だけを追求する者は、やがては空しく滅びてしまいます。神の前に豊かな者とは、自分自身の中に閉じこもってしまう者ではなく、喜んで「自分自身を与える者」(エーリッヒ・フロム)です。
・豊かな国に住んでいる私たちは、自分が貪欲、独占欲に捕らわれていることに気づかないことがあります。貧しい国々の人々の暮らしにも目をむけましょう。
・兄弟などがいない場合、子どもたちは普段、自分のものを他者と分ち合うことにも慣れていないかもしれません。具体的に何かを分ち合うような体験を、礼拝や分級の中で実践してみましょう。
・エーリッヒ・フロムは『愛すること』の中で、「たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのである。何かを失うのではないかと心配して思い煩っている貯蓄型の人は、心理学的にいえば、どんなにたくさんのものをもっていようとも、貧しい人、貧しくされた人である。自分自身を与えることのできる人は裕福な人である」と言っています。
ある金持ちの畑が、大豊作に恵まれます。畑の食物はたわわに実り、倉庫はあふれていっぱいになってしまい、作物を全部しまっておくことができません。お金持ちは、それを見て考えます。「うれしいな、こんなにたくさんの作物がとれたぞ。しかし、こまったな、全部をしまう場所がない。どうしたらいいだろう・・」。いいアイデアがうかびました。「今よりもっと大きな倉庫を建てて、そこに作物をしまいこんだらいいんだ。そうすれば、もうこれから何年間も先のことを心配せずに、好きなだけ飲み食いして楽しめるぞ。何の心配もなく遊んでくらせるぞ。人生を大いに楽しもう!」。金持ちは、うれしくてうれしくて、踊りだしたいほどでした。
しかし、神様は金持ちに告げます。「愚か者よ、お前はこれから何年も生きていけると思っているが、お前の命は今晩で終わりだ。そうなったら、お前の用意したもの、たくさんの作物、倉庫に納めきれないほどの食糧は、どうなるのだ」。
みなさんは、この金持ちをどう思いますか?いったいなにが間違っていたんでしょう?
一つは、彼が自分のことしか考えていなかったことです。金持ちのまわりには、きっと毎日の食べ物にも困るぐらい貧しい人たちがたくさんいたはずです。それなのに、彼は自分のためだけにありあまる作物をとっておこうとするのです。そのために大きな倉庫を建ててまで、独り占めしたかったのです。
もう一つは、この金持ちが、大地やお天気を支配される神様のことを全く考えていなかったことです。作物が豊作になったのは、自分ががんばったからだと有頂天になっていたのです。雨を降らせ、実りを与えてくださるのは神様だということをすっかり忘れてしまうほど、自分をえらいと勘違いしてしまったのです。
私たちはどうでしょうか。目の前にある豊かなもの、食べ物や着る物、暮らしに必要なものを、感謝の気持ちをもって受け取っているでしょうか。また、自分だけで独り占めにしたい気持ちがどこかにありませんか?「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」(15節)というみことばを忘れないようにしましょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□51番 「わたしはしゅのこどもです」
□123番(改訂版) 「わたしは主のこどもです」
・どん欲、欲張りについて考えてみよう。
・私自身はどうでしょう。
・どんな時にも、他の人のことを考えることができたらいいですね。
紙をつかって色々の半分を作ってみよう。
折紙で横に折っても縦に折っても半分が出来る。三角に折っても半分になる。矩形(長方形)の紙ではどうしますか。星形や六角形など色々の形で半分にするにはどうしたらいいでしょう。
うれしいこともかなしいことも、お互いによく話し合うことで、分け合うといいですね。