・「神の国」とは何か、神の国にふさわしいとはどういうことかを考える。
・エルサレムが十字架の死を遂げられる場所であり、そこへ向かう決意を固められたその思いを知る。
・神の国とは、どこか遠い場所ではなく、神の支配という意味である。
・ルカ9章51節から18章にかけてエルサレムへの旅という大きな枠組みになる。
・「エルサレムへの旅」という大きな枠組みの始まりにあって「向かう」(51節)、「道を進んでいく」(57節)とエルサレムに向かっている様子が強調されている。
・列王記上19章19節以下によると、エリヤがエリシャを招いたとき、エリシャは両親へ別れの接吻を求め、エリヤはそれを認めている。
「天国」や「神の国」というとどのようなイメージを持っていますか?(子どもたちの声を聞くといいでしょう)
天国というと、死んだ後に行くところ、あるいは地獄と対になっているところというイメージが多くの人にあるかもしれません。ですから、生きている今、天国のことはあまり関係ないと思ってしまうものです。また、国というのですから、空のかなたにそのような国があると思うかもしれませんね。
でも、新約聖書が書かれている元々の言葉はギリシャ語という言葉ですが、ギリシャ語では「国」と訳されている言葉は「支配」を意味する言葉が使われているのです。つまり、「天国」「神の国」とは、どこか空のかなたにある場所ではなくて、神さまが支配されるということを意味しているのです。
今日、イエスさまは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。それは神の国に入る資格のことというよりも、神さまの支配の下にあることにふさわしくないと言われているのです。神さまの支配の下にあるということは、神さまにすべてを任せて生きるということだからです。
イエスさまは十字架の死を遂げられるエルサレムへと歩き始められました。このイエスさまこそ、神の支配の下に生きる者の姿そのものでした。神さまにすべてを委ねて生きられたからです。そのイエスさまの弟子となって従いたいと思う人たちがいましたが、その中のある人は「あなたに従いますが。家族に別れを言わせてください」と言いました。その人に向かってイエスさまは「鋤に手をかけて後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われたのです。それはイエスさまが十字架の死を遂げられるエルサレムへと向かわれるのは、神の支配の下に生きるということだったからです。イエスさまに従うということは、従おうとする私たちも神の支配の下にある自分を生きるということなのです。私たちはいろいろな心配事をかかえて生きていることがあります。失敗することも心配ですね。でも、神さまはすべてを支配しておられますから、心配することはありません。もちろん神さまに任せれば失敗しなくなるということではありません。失敗しても、それが自分がダメだということではないとわかるようになるのです。
すべてを任せて安心して生きることこそ、神の支配の下に生きることです。みんなが小さくても、弱くても、自信が持てなくても、神さまに任せて安心して生きてごらんなさいと教えられています。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□54番 「かみのめぐみを」
□120番(改訂版) 「主イェスの道を」
用意するもの先週と同じリュックサックとペットボトル数本
□重荷(自分の十字架)を背負っていくのは大変苦しい事。先週を思い出してみる。
□詩「FOOTPRINTS」を紹介する。
□重いリュックを背負ったまま大人(神さまの代わりに)におんぶしてもらうひとりで背負っているときよりも楽に感じるし、一人ではない、という嬉しさがある。神さまはどんな時もわたしたちを受け止めて、私たちが気づくずっと前から一緒にいてくださる方。その喜びを伝えたい。感謝の祈りを共にささげる。