①毎日の生活の中で、イエスさまに従うように招かれていることを知らせる。
②イエスさまを「何者」としているかを考える。
③「自分を捨て」「自分の十字架を背負って」について考える機会とする。
・「あなたはわたしを何者だと言うのか」という問いの前に立つ。
・上記の問いと「自分を捨て」「自分の十字架を背負って」従う招きとのつながりを考える。
・イエスさまを私の主とするということは、そのように生きるということ。イエスさまのために「自分を捨て」「自分の十字架を背負って」従うことが求められる。
・ルカによる福音書において、「祈るイエス」の姿を数多く見出すことができる。多くの場合、何か大切なことを教えられるか、行われる直前である。
・マルコやマタイが「フィリポ・カイサリア地方」と場所を明記しているのに対して、ルカは祈るイエスの姿を記し、場所を特定しない。この出来事が特定された場所や時間を越えることを強調している。今、私たちは「わたしを何者だと言うのか」と問いかけられ、「自分を捨て」「自分の十字架を背負って」従うように招かれているのである。
「イエスさまは誰か」と聞かれたら、私たちは何と答えますか?(子どもたちの答えを聞き、紹介する)ペトロさんは「神からのメシアです」と答えました。「神さまから来てくださった救い主です」という意味です。それでは「あなたにとってイエスさまが『神さまから来てくださった救い主』であるとはどういうことになるか」と尋ねられたら、何と答えたらいいのでしょう。
「私にとってイエスさまが『神さまから来てくださった救い主』である」ということは、口でそのように言い表すということだけではなく、イエスさまを私の救い主として生きるということです。それは今日、イエスさまが教えておられるように「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って」イエスさまに従うということです。
マザー・テレサさんの本に一つの話が紹介されています。「マザー・テレサの活動が人々に知られる前、一時期、マザー・テレサのところに砂糖がまったく入らなくなったことがありました。そのため、毎日お世話をしている何千人もの孤児、病人、貧しい人たちにも砂糖を分け与えることができませんでした。カルカッタに住む4歳の子どもは、学校で先生から話を聞くと両親に言いました。『ぼくは、今日から三日間砂糖を食べないよ。ぼくのぶんをマザー・テレサにあげるんだ。』~三日後に家族そろってマザー・テレサを訪ね、そのビンを差し出しました。それは、男の子がマザー・テレサや貧しい人たちを助けるために、三日間自分を犠牲にしてためたものだったのです」。(マザー・テレサ愛の花束/PHP研究所p.16以下より)
小さな男の子は、マザー・テレサさんのために三日間、自分のことを我慢しました。砂糖は甘くておいしいので、その男の子も大好きだったかもしれません。大好きなものを小さな男の子は我慢したのです。それを自分で決めたのです。そして、それはマザー・テレサさんのためだけではなく、イエスさまのために自分を捨てて、従ったということです。
私たちは、誰かのために自分の好きなものを我慢して分けてあげたり、自分の時間を誰かのために使ったりすることができます。困っている人をみて、自分のできることをすること、独りぼっちの誰かと友だちになること、自分のことではなく誰かと一緒に生きること、それこそ自分を捨てて救い主イエスさまに従うことなのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□127番 「イエスさまのじゅうじかを」
□84番(改訂版) 「イェスさまのじゅうじかを」
<用意するもの>
リュックサック(大人用の大きさのもの)
ペットボトル(中身が入っているもの)大・中・小数本ずつ
□自分の気持ちをペットボトルの大きさに例えてリュックにつめる。つらい気持ち、悩んでいる事、ケンカしちゃった、自分で感じる自分のいやな心・・・。たくさんの思いを実際の荷物として背負ってみる。
□こんなに重いのは大変。放り出したい。楽になりたい・・・。でも神さまは敢えて「背負ってついてきなさい」「従ってきなさい」と言われる。神さまは、ありのままのあなたでいいんだよ、と私たちを受け止めてくれる方。
□重荷を背負っていく、とはどういうことなのか体験してみる。