・神様に赦されていること、受け容れられていることを心に留める。
・ファリサイ派の人シモンが主を招いたのは、「主はどういう人間だろうか」という単なる興味からだろう。彼は、主を、お客に招いたが、足を洗うこともせず、頭の香油を塗りもしない。つまり、大切に主を扱わない。
・「罪深い女」の主への行為は、シモンを不愉快にする。
・47節:彼女の愛の行動は神の赦しを受けている者としての具体的な表現。彼女はただ主に愛を向ける。そのように行為して、赦しを頂こうというような心ではない。それは、相手が赦す、赦さぬに関わりなく愛する愛である。そして、この愛は、神の愛と重なる。人間の如何によってその愛を変えることなく、ひたすらに愛し続ける神の愛と憐れみを示す。それは、見返りを要求しない愛である。
・罪深い女は、娼婦であろう。
・中近東では客のいる家に他人が勝手に入って来ることは普通のことだった。
・足に接吻して香油を塗るのは、その人に対する深い尊敬のしるし、また感謝のしるし。「足を涙でぬらし」痛悔と愛の溢れる心を表す。
今日のお話の中で、イエス様がたとえ話をされています。お金を借りている人が2人いました。1人は500万円、1人は50万円とします。2人とも返せませんでした。返すお金がなかったのです。そこで、貸している人は「もう返さなくていいよ」とゆるしてあげました。2人とも返さなくてよくなってとても喜びました。そのお話をして、イエス様は、2人のどちらの人がたくさん喜んだでしょうか、どちらの人が返さなくていいよと言ってくれた人にありがたいなあと思ったし愛したでしょうかと聞かれました。皆さんはどちらだと思いますか?そうですね、500万円もたくさん返さなくていいよ、と言われた人のほうがたくさんありがたいなあって思いますね。
今日の聖書には、女の人が出てきますね。この人はたくさん悪いことをしてしまっていました。さっきのたとえ話では、500万円の借金がある人のほうです。だから、そういうたくさん悪いことをした自分を赦してくださるということは、この女の人にとってものすごく嬉しかったのです。だから、涙が出てきて、その涙でイエス様の足をきれいにしようとしたのです。
シモンさんという人が出てきます。この人がイエス様をお家にご招待したのです。だけど、足をきれいにする水をくれたりもしませんでした。この人はファリサイ派という団体の人でした。この団体の人はまじめな人たちです。立派な生き方をする人たちです。善いことをたくさんします。だから、自分は立派な人間だ、と勘違いしてしまう危険がいつもありました。実際に自分のことをそういうふうに立派だと思っていた人もいたでしょう。善いことをすることはいいことです。でも、そこには危険があります。勘違いしてしまう危険です。自分は立派だとうぬぼれてしまうのです。この人は50万円返さなくていいよと言われた人のほうでしょう。
シモンさんと女の人。どちらの人が自分を赦してくれて、受け容れてくださっているということをたくさん感じるでしょうか。女の人ですね。
私たちはたくさん赦していただかなければならないのです。それが本当です。うそのことは、自分はそんなに悪いことはしていないよと思うことで、本当の自分がわかっていないのです。
たくさん悪いことをしてしまう、そういう私たちを神様は赦していてくださって、受け容れてくださっています。そのことを神様にありがとうの気持ちで過ごしていきましょう。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□53番 「しゅにしたがいゆくは」
□119番(改訂版) 「主に従うことは」
・「受容の受容。=(神に)受容されていることを(私たちは)受容する」(P.ティリッヒ)という言葉について考える。
・「理想的な人間を、ではなくて、あるがままの人間を神は愛し給う。」(D.ボンヘッファー)という言葉について考える。
・今日、この時代の中で、この「神の受容」の持つ意味について考える。
・善い行いは、神が行う業であることを考える。それに関して、マタイ25:31以下の話で、「いつ、…しましたか」と言う人について参照し、考えてみる。
いよいよ訪問!
家を訪ねたり、ホームや病院(もちろん事前に連絡)に行って、プレゼントをわたしましょう。
この時、あかるいあいさつと歌のプレゼントがあると大変喜ばれます。(玄関などでうたっちゃおう)
自分たちのできる小さな小さなことがこんなに喜んでもらえるという体験をすることでかえって自分たちが嬉しくなってしまうという気持ちを味わいます。