イエスは祝福しながら天に上げられたが、祝福をしながら、またおいでになること(使徒1:11)を教える。
・ルカ福音書だけでなく、同じイエスの昇天の場面がある使徒言行録も考慮してメッセージを作らなければなりません。
・わたしたちが普段の生活で使う「祝福」という言葉と、聖書にある「祝福」の意味の違いを理解すること。
・ルカ福音書と使徒言行録は同じ人物によって書かれた。ルカが前編、使徒言行録が後編にあたる。その同じ著者によって書かれた二つの文書の「つなぎ」の部分が、ルカ福音書の最後にあるイエスの昇天の記事であり、使徒言行録の最初の部分がイエスの再臨の約束である。
ルカによる福音書と使徒言行録は、同じ人物によって書かれたものです。ルカは前半部分、使徒言行録は後半部分、このふたつが合わさってひとつの物語ができているのです。復活をされたイエス様が天に上げられたということ、それは、弟子たちとさよならをした、ということを意味しています。けれども、使徒言行録1:11には、白い衣を着た二人の人の言葉で「またおいでになる」と語られています。さよならをされたイエス様は、またおいでになる。イエス様がまたおいでになるためには、まず「さよなら」をしなければならなかった。再び会うために、イエス様は一度弟子たちから離れなければならなかったのです。この今まさに天にあげられようとしているイエス様は、十字架にかかられたお方です。十字架にかかられて、激しい痛みの中、死んで行ったお方であります。けれども、一度死なれたイエス様は、復活して弟子たちにご自身を現わされたのであります。まさに、死ぬことは永遠の別れではなく、再び会うためにどうしても必要なものなのだと、イエス様は伝えたかったのかも知れません。こうして、白い服を着た二人の人の約束「イエス様はまたおいでになる」という約束は、イエス様が復活して弟子たちに会いに行った出来事によって、わたしたちは信じることができると思います。死者の中から復活し、弟子たちに現われて、そして天に上げられたイエスは、またおいでになる。そのことが本当に実現する、そのことをこの聖書の箇所は語っております。イエス様がまたおいでになる。では、イエス様はどのようにおいでになるのでしょうか?ルカ福音書24:50〜51では、このように書かれています。「イエスは、そこから彼らをベタニヤのあたりまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」。そして、使徒言行録の方には、このように書かれています。1:10〜11です。「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると白い服を着た二人の人がそばに立って言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有り様で、またおいでになる』」そう書かれています。天に上げられたイエス様がまたおいでになるとき、イエス様は天に行かれたのと同じ有り様でまたおいでになる。つまり、イエス様は手を上げて、祝福しながら天に上げられたわけですから、イエス様は手を上げて祝福しながらまたおいでになるのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□132番 「みんなでいっしょに」
□92番(改訂版) 「たたえよ、この日」
<用意するもの>
スーパーのレジ袋、タコ糸、テープ
※絵本ほねなしカイト福音館参照