①イエス様はわたしたちに十字架のものさしをくださった。。
・正統な立場にあると自認している者たちにとって、自分たちが重んじている律法や伝統、生活様式がイエスの弟子たちによって破られてしまうことに我慢できなかった。もともと「神の掟」は、人間の生きるべき道を神が示されたものであったが、人の手によって有害なものに変えられてしまったことをイエスは厳しく批判された。
・2節、「汚れた」は、律法に照らして祭儀的に汚れていること。衛生的なことが問題とされているのではない。
・12節、「コルバン」は、「神への供え物」を意味するヘブライ語である。ある物について「これはコルバンである」と宣言すると、実際に神に供えられなくても、神への聖なる供え物とされ、本来の目的に使うことができなくなる。イエスは「父母を敬え」(出エジプト20章12節)の形骸化の例として用いられた。
イエス様は今日、わたしたちに問われています。わたしたちが堅く守っているのは、神様の掟ですか、それとも自分たちの言い伝えですか。
ことの発端は、ファリサイ派や律法学者の人たちが、イエス様の一部の弟子が手を洗わないで食事をしていたということから始まります。不衛生な手で食べるとおなかをこわしますよ、という意味ではありませんでした。宗教的にけがれが清められていない手で食事をするのはけしからんという意味でした。
イエス様はファリサイ派のまちがいを指摘してくださいました。「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている」「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである」。これはイエス様の言葉です。
ファリサイ派や律法学者の人たちは、神様がくださった律法を守ろうと真剣であった人たちです。律法は神様がこう行ないなさいと命じられたことです。わたしたちは神様って厳しいなあと思います。けれども、わたしたちは律法をくださった神様のみこころを思い起こさなければなりません。
十戒の前文にこうあります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20章2節)。神様にとってイスラエルの民は、特別に愛してくださった民です。エジプトという外国で、奴隷の身分であってはいけない、もともと先祖が住んでいたパレスチナに帰り、自由の身分となって生きていきなさい。そういった神様のみこころが出エジプトへと導いてくださいました。神様の力によって奴隷状態から自由の身分にしていただいたという大きな奇蹟をイスラエルの民は経験しました。その大きな奇蹟を覚え、神様に感謝して生きるにはどうしたらよいかが具体的に十戒に記されているのです。神様の戒めとは、神様を愛し、隣人を愛する生き方でした。人々はそうできるはずでした。けれどもだんだんと人々は十戒をさまざまに解釈して教えるようになりました。その解釈は、結局は自分自身のものさしではかったやりかたでした。人々はあとで付け加えた自分のものさしの方が、あたかも神様の掟であるかのように教えていきました。
わたしたちは何を堅く守っているでしょうか。神様の掟でしょうか。それとも自分たちの言い伝えでしょうか。
人間の言い伝えにどっぷりつかってしまったわたしたちに、イエス様は十字架の上で犠牲になってくだることを通して、神様の愛をあらためて教えてくださいました。イエス様は、わたしたちが自分のものさしを捨て、イエス様のものさしに従う生き方を教えてくださいました。ファリサイ派の人たちのように人を非難するのではなく、イエス様がしてくださったように愛をもって支え合うように教えてくださいました。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□3番 「きよいあさあけて」
□改訂版97番 「美しい朝も」
①2人ペアになって、自己紹介をします。そして、いろんなことを質問しあったりして、相手のことよく知ってください。好きなこと、苦手なこと、はまっていること、好きな食べ物、習い事、将来の夢、何でもいいです。できるだけ、相手の良いところを見つけてあげて下さい。
②次に相手のことをみんなに紹介します。「いつも教会学校で遊んでいるお友達の新しい発見はありましたか?学校などで、人のうわさや見た目だけであまりよく知らないのに人の事を悪く言ったことはないですか?あまり好きではない友達もいるかもしれないけど、どうすれば仲良くできるかな?考えてみましょう。」