①イエス様は神の子であるということを心に刻む。
・故郷の人々はイエスの兄弟を知っていた。イエスは自分たちと同じただの人間にすぎないととらえ、神の子として受け入れなかった。
・イエスのすばらしい業の背後には神がおられた。その視点を持つならば、故郷の人々は「驚き」が「信仰告白」になったはずである。
・これまでイエスの活動の中心はガリラヤ湖周辺であった。この箇所は故郷ナザレに戻った場面である。直前の箇所は「信仰」が強調され、この位置では「不信仰」が強調されている。
・イエスに対する家族の無理解はマルコ3章20節以下に記されている。
・2節「イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った」の「驚く」は、接頭語エク<外へ>とプレッソー<打つ>の合成語。意識が外へ打ち出された状態を表し「たまげる」の意味。特にイエスの振舞い、教えや奇蹟が引き起こす驚きを表す。
イエス様はたくさんの人々に神様のお話をしてくださいました。イエス様のお話を聞いた人は、不思議と心が暖かくなりました。もっともっとイエス様のお話が聞きたくなりました。イエス様の服にさわった女の人は、長い間苦しんできた病気が治ってしまいました。もう治らないと思っていた病気がすっかり治ってしまい、びっくりしました。この女の人は病気が治ってとてもうれしかったと思います。わたしたちはそういったお話を聞くと、やっぱりイエス様は神様の子なんだと思います。
ある日、イエス様は子どもの時にお過ごしになったナザレという村にお帰りになりました。礼拝堂で神様のお話をしてくださいました。聞いていた人たちはお話をしてくださったイエス様をよく知っていました。「この人はあの大工のせがれでしょ、マリアの息子よ。何でこんな知恵のあふれた言葉を話すの?」「あの兄弟のひとりよ、こんな奇蹟をするなんてありえない。何かしかけがあるんじゃないの」。村の人たちの中には、子どもの時、イエス様と一緒に遊んだ仲間かもしれません。イエス様と一緒にお食事をしたこともよく覚えていたかもしれません。服装も自分たちと特別に変わっていません。ですから村の人たちは、イエス様を自分たちと同じ人間としか見れませんでした。イエス様を神様の子と信じることはできなかったのです。
でも、わたしたちはイエス様が神様の子であることを聖書から知らされています。イエス様は十字架の上で死なれましたが、三日後にはよみがえってくださいました。イエス様は復活という大きな奇蹟をしてくださった神様の子です。イエス様はわたしたちと変わらないからだを持っておられます。マリアのお腹からお生まれになりました。イエス様は子どもの時代には友だちと一緒に遊んだり、仕事の手伝いをされました。イエス様はわたしたちと変わらないからだを持って生きてくださった神様の子です。イエス様が語られた言葉は、神様のお言葉です。だからわたしたちはイエス様のお言葉を聞くと心が暖かくなるのです。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□53番 「しゅにしたがいゆくは」
□改訂版119番 「主に従うことは」
<用意するもの>
新聞紙、ピンポン玉2個(2色)
①どんな時、神様を信じてるって思うか紙に書いてみよう。
(1人1枚でもいいし、大きめの紙にみんなの意見を書いていってもいい)
ex)教会に来た時、お祈りする時、嬉しい時、こわい時・・・・。
②今度は、どんな時、神様を信じてないって思うか書いてみよう。
ex)教会から離れている時、いいことがない時、いじわるな時・・・・。
※子供達の気持をうまく引き出してあげてください。
③今日の聖書の箇所を読んでみる。ナザレの人たちはどうしてイエス様のことを信じなかったのか話してみる。
④2色のピンポン玉の片方を信じる心のボール、片方を信じない心のボールにする。
⑤新聞紙の真ん中にピンポン玉の大きさぐらいの穴を開ける。新聞紙の周りをみんなで持ち、信じる心ボールは落とさないで、信じない心ボールだけを落とす。(2人ずつ、または4人ずつやってもいいし、グループ対抗でやっても盛り上がる)