・責任と使命について考える。
・イエスの言葉に権威を付加するために、安易な知識でユダヤ教(ダレか)を貶めてはいけない。
・「人間生命は安息日の掟をこえる」ということは、ユダヤ教の根本原則であった。イエス以前のまたイエス以後のラビたちの多くがそのことを書き記している。
・「人間の生命を救うことは安息日を押しやる。」出エジプト記のラビ注解「メキルタ」より。
学校とは、子どもたちが学ぶところである。学ぶことが好きではない子どもたちがいたならば、学ぶことの楽しさ、素晴らしさを教えてあげるところである。教育基本法にはそのように書いてある。
しかし、学ぶことは、初めから楽しいことばかりではない。いや、きっと楽しくないことの方が多いだろう。基礎を身につけるには、繰り返すこと、つまり努力と忍耐が必要だからだ。努力と忍耐はそれだけではあまり楽しくないことだと思う。
そこで、努力するのはいやだなぁ、我慢するのはいやだなぁ、と思っている子どもたちがこう言ったとする。「学校は勉強だけをするところではない」、と。
大人たる者は、はっきり・きっちりと子どもたちに宣言しなければならない。「学校は勉強をするところです。教育基本法にはそう記してあるのです」、と。それが大人たちの責任ではないだろうか。
さて、前の週の説教の中にも記しているが、ミシュナ(ユダヤ教の口伝律法を文書にしたもの)の中の『安息日』7:1以下に、安息日にしてはいけないたくさんの決まりごとが記されている。その一つひとつは、安息日を大切に守るために、じっくり時間をかけ議論してできあがったものたちである。つまり、その決まりごとの膨大な数が表しているのは、安息日の大切さを守るためにはこれだけの努力と忍耐が必要ですよ、ということだろう。つまり、それを実践していたイエスの時代の人たちは(ユダヤ教徒の人たちは)、安息日をそれだけ大切にしてきた、と言えるのである。
私たちがこの視点を抜きにして、あんな膨大な決まりごとを守っているユダヤ教徒は愚かな律法主義者だと見下しているならば、それは、律法を守るかどうかでイエスを訴えようとした人たちと同じ視点に立っていることになってしまう。または、単語を繰り返し繰り返しノートに書き綴りながら憶える努力を馬鹿にすることになるだろう。
学ぶことの楽しさと素晴らしさは、努力と忍耐の先にあるものだ。何万の単語を憶えたからお終い、ではない。学ぶことの楽しさと素晴らしさは、それらを用いて自分で考える、ということの内にあると思う。イエスは言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか」、と。イエスの言葉を、努力と忍耐を無効にする言葉として聞き取ってはいけない。そうではなくて、イエスは、その向こう側にある責任と使命(人生の喜び)について語っているのだから。
「手を伸ばしなさい」、イエスは私たちにも、同じように語りかけておられる。
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□5番 「かみさまは」
□改訂版48番 「おそいくるライオン」
<○○さんが言いました>のゲームを「イエスさまが言われました」にして遊ぶ。
輪になって座る。
鬼は真ん中に立つ。
鬼は「イエスさまが言われました」と前置きを言ってから最初に「手を伸ばしなさい」と言う。その後は好きな動作を自由に指示して他の人は従う。「イエスさまが言われました」と言う前置きのない時は従わなくて良い。前置きがないのに言われた動作をしてしまったら間違い。3回間違えたら鬼を代わる。
鬼が代わっても最初は「イエス様が言われました、手を伸ばしなさい」で始める。
・イエスさまは神の子として行動しておられましたが、ファリサイ派やヘロデ派の人々はこれを認めず、イエスを殺そうと考えました。
「分かっているけど、受け入れられない」そういう経験は、あなたにありますか?考えてみましょう。そして、みんなで分かち合ってみましょう。