・安息日はあなたのためにある、ということを学ぶ。
作成のポイント
・イエスは何を示そうとされているのか。
・安息日が定められた聖書的背景は、創世記2:2、申命記5:15、に記されている。
ミシュナ(ユダヤ教の口伝律法を文書にしたもの)の中の『安息日』7:1以下に、安息日にしてはいけないことの表がのっているが、そこに「種蒔くこと、耕すこと、取り入れをすること・・・」というのが出てくる。また、「耕作と刈入れ」を安息日に休むべきことについては、出エジプト記34:21に記されている。それに対して、申命記の23:25には、他人の所有する畑であっても、通りすがりに麦の穂を手でつんで食べることは許される、という規定が記されている。他人の畑に鎌を入れて刈れば、他人の所有物を盗むことになるが、お腹のへった時に通りすがりにつんで食べるぐらいなら、寛容をもって許される、というのである。また、ユダヤ教のラビ、シメオン・ベン・メナシヤは、「汝らのために安息日が与えられたということで、安息日のために汝らが与えられたのではない」、と言っている。この言葉、まさに、イエスの言葉「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と同じである。
さて、ここで、今日の福音書の物語を整理してみよう。
ここでのメッセージは、
①「耕作と刈入れ」を安息日に禁じている律法(出エジプト34:21)と、お腹のへった時に麦の穂を手でつんで食べることは許されるという律法(申命記23:25)の優劣を論じているのではない。
②「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」というオリジナルな解答(真理)が素晴らしい、ということではない。
では、これらを踏まえた上で、イエスは何を私たちに示そうとされているのだろうか。それは「姿勢」ではないだろうか。イエスの言葉が示そうとしているのは、物事への正しい解答ではなく、物事への向き合い方なのだと、と思う。
「安息日を聖とせよ」、これは十戒の中の大切な戒めである。イエスはこの戒めの無効を宣言されたのではない。安息日(休息を取ること「創世記2:2」、神の恵みに感謝すること「申命記5:15」)を守ることは大切なことなのだ。しかし、だからといって私たちが、安息日を守れない人を無価値な人間であると裁いたらどうだろうか。それは間違っている。安息日を守りたくても守れない人もいる。また、安息日なんてどうでもいいんだから、という人は、大切なことを取り違えているのではないだろうか。正義が峻厳に過ぎると他者を裁いてしまうことになる。またすべてが赦しだと人は無責任になってしまうだろう。では、どうしたらよいのか。模範解答はない。あなたが責任をもって応答するものになる、ということ以外は。安息日はあなたのためにあるのだから。09/06/21
*讃美歌は”こどもさんびか”(日キ版)より
□103番 「どんなにちいさい」
□改訂版58番 「どんなに小さい小鳥でも」
<用意するもの>
麦 花屋さんで売っている青い麦2〜3本
ない場合は麦を画用紙に描いて切り抜いてもいい。
輪になって座り両手を後ろに廻して床の上を動かし麦を探す。
鬼は輪の外側を歌い乍ら麦を持って廻る。
歌っている間に誰かの後ろにこっそり麦を置く。
後ろに麦があることを見つけたこどもはすぐに麦を持って立ち上がり輪の外側に出て鬼を追いかける。
鬼は捕まる前に立った子どもの席に座る。麦を持った子は鬼になる。
座る前に捕まったらもう一度鬼になる。
♪ハンカチ落としの歌
おとした、おとした、麦の穂落とした、拾った方は追いかけておいで拾った方は追いかけておいで。
※安息日ビジュアル聖書百科p155安息日
・「きまり」ではなく、主に信頼し、聞き従うことの大切さをイエスさまは教えられました。神さまやイエスさまに、聞き従いながら生きていくためにはどうすればよいでしょうか?みんなで話してみよう。